隣の世界の覗き窓

映画とか…漫画とか…虚構の世界をレビューするブログです。

華麗なるギャツビー(2013)

華麗なるギャツビー(2013)
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監督:バズ・ラーマン
製作:バズ・ラーマン、キャサリン・マーティン
   ダグラス・ウィック、ルーシー・フィッシャー
キャスト:レオナルド・ディカプリオトビー・マグワイア
     キャリー・マリガンジョエル・エドガートン
     アイラ・フィッシャー
【作品紹介】1974年にロバート・レッドフォード主演で映画化もされた、米作家F・スコット・フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」を、「ロミオ+ジュリエット」のバズ・ラーマン監督&レオナルド・ディカプリオ主演コンビで再映画化。1920年代の米ニューヨーク、ロングアイランド。宮殿のような豪邸に暮らし、素性も仕事も謎めいた大富豪のジェイ・ギャツビーは、毎夜のように豪華絢爛なパーティを開いていた。そんなある日、ギャツビーは、隣人の青年ニックに自らの生い立ちを語り始めるが、あまりにできすぎた物語に、ニックはギャツビーが何か隠し事をしていると直感する。やがてギャツビーは上流階級の令嬢デイジーに心ひかれていくが……。ニック役のトビー・マグワイア、デイジー役のキャリー・マリガンらが共演。(映画.comより)


たまには有名どこも見てますよという記録でも。


時代を背負った名作
あまりにも有名な小説の再映画化ということで、非常にお金がかかっていて話題になっている今作。にわか文学かじりの私のような人種の皆様(失礼)も一度は読んだことがある作品でしょう。ロストジェネレーションの米文学というのはなかなかクセになるものがあります。急激に都会化が進み、好景気に浮き足立つアメリカの都市、一方でその裏側に潜む不気味な不安感や悲劇的な人間模様、社会の濁流に飲まれていく個人の儚さ……これらは高度経済成長やバブル崩壊、その後の景気低迷に喘ぐ我らが極東国家の市民にも心の奥で相通じるモチーフでもあります。


グレート・ギャツビー」は僕も大昔(といっても5〜8年前くらいかな)に野崎孝訳で読んだっきりで、細部については覚えておらず、ただただ悲劇的でやるせない……繊細なイノセンスが壁にぶつけられた卵のごとく、傲慢なブルジョワ達の前に儚く散っていくさまに胸が苦しくなる…そんな印象がただただ強く残っていました。そしてギャツビーのただ1人の理解者であった隣人ニックの目を通して、読者がこの悲劇の一目撃者になるという、そんな追体験的手法が一層我々の心を引き裂くのです。


こうした繊細さやイノセントな魅力をもった人間が、社会のうねりの中に人知れず消えていく…そんな哀しき運命を誰も止めることができないという無力感。実社会に生きづらさを感じる人ほどこのような作品の中に飲まれていってしまうのではないでしょうか。村上春樹氏の新刊を読むかぎりでも結局そこに着地するところが、やはり近代以降…あるいは遥か昔から人間にとっての大きなテーマの一つであるといえるジャンルのような気がしますね。


さてさて、今回の映画化は文学ファンにとっても映画ファンにとっても、そしてそのどちらにも属さない層の方々にとっても非常に好ましいものであったと思います(企画自体は)。実際に公開一週間足らずで日本でもかなりの興行収入があがっているようです(3Dで単価が高いせいもあると思いますが)。


さて、内容について一言で僕の感想を先に書いてしまうと、

「なんかあんまり面白くなかった」

です。。


もうこれは単純に、やっぱり映画なんで、面白かったかどうかで言うと、イマイチだったなぁーと。まぁ確かにバズ・ラーマン監督のメガホンということで、ある程度こういうものになるだろうなぁという予想はたてとくべきなんですが、全体としてはちょっと残念といいますかね。もう少し素材の良さと彼の手腕を共存できたんじゃないの…?とか思ったりしてしまいます。


良くも悪くもラーマン節
「ロミオ&ジュリエット」に現代版として思い切ったリニューアルを試みたり、「ムーラン・ルージュ」でも絢爛なやり過ぎ映像美をもたらした彼ならでは(二作とも未見ですすいません。。)の「グレート・ギャツビー」にはなっています。特にギャツビー邸で行われる悪趣味乱痴気パーティの模様はある意味見事。時代感に変にとらわれず、奔放な表現を追求する姿勢は尊敬に値しますね。3Dという試みもよかったと思います。僕は個人的には、3Dという手法は物語世界の中に観客が入り込んでいくのを促すために効果的だと考えています。アクションとかファンタジーものだけではなく、こうした異なる時代感や、そこに「居合わせる」という視点を観客に与える場合にも有効です。これから史実ものとか時代劇なんかにも取り入れて行ってもらいたいですね。



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画像荒いかな…



ギャツビー邸でのパーティもよかったんですが、どちらかというとニックがトムの愛人と共に連れられていった小さな部屋でのバカ騒ぎのシーンの方が印象的でしたね。原作のイメージとは全然違ったんですが、虚しさという意味で、あぁこういうことでもあるんだなぁ…と胸につっかえてくるものがありました。


さて、今作が残念なのは、こうした貪欲な視覚表現の追求の一方で、やはり肝心なドラマの部分が薄味になってしまったということです。特にキャスティングは素晴らしく、ディカプリオ、トビー・マグワイアキャリー・マリガン、エリザベス・デビッキ、なんかはとっても役にはまっていました。ディカプリオは美しい青年時代を抜けて、最近では文字通り脂ののった男性像を好演することが多くなりましたね。特にどこか倒錯的で悲劇を背負った姿…、華やかさの一方で影があり、危うさを孕んだ男の奇妙で曖昧なバランス……こうした役どころが本当にうまい。今作でもジェイ・ギャツビーにはうってつけの役者だったと思います。



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さらにデイジー役のキャリー・マリガンもとびきりかわいく、まさに弱っちくて自分では何も決められない上流階級のお姫様。でもバカな男からすると守ってやりたい憎めない女。デイジーの場合はそれを自分自身で嘲笑的に自覚しているところが哀しいところです。もっともっとバカに育っていればどんなにか苦しまずに済んだだろうか。そういう彼女の持っている影もまた今作の魅力のひとつです。僕のいちばん大好きな台詞もちゃんと(あまりに重要な台詞なので絶対に省かれるはずはないんですが。どれだか分かるかな?)彼女の口から聴くことができてまぁよかったなと。(が、やはり映画版は原作よりもデイジーのキャラクターも薄かった気がします。原作ではもうちょっと頭のいいところ、それ故の哀しみがあったような。)



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ニック役のトビー・マグワイアもGOOD。優等生的でどこかブルジョワ階級には馴染めないニックがやはりお似合いという感じ。いつ手首から糸が飛び出すかとひやひやすることもなく(笑)観れましたね。


ニックの立ち位置
けれども、今回、どうにもいまひとつに思えたのが、作品全体として、ニックの一人称の語りに頼り過ぎている気がするんですよね。最初から最後までとにかく終始ニックニックニックニック!お前の現在からの視点ってそんなに必要か?と。彼の現在の姿…というのはそこまで重要なファクターじゃないのではないでしょうか。モノローグとして挿入するくらいならいいかと思うんですが。。。もちろんこうした回想をつかった物語へのいざない…というやり方で、やはり3D的な手法を用いた効果を狙った映像づくりはされているんですが、なんかあんまりそれ有効じゃないんじゃないの…という印象です。


あくまで「グレート・ギャツビー」って、ギャツビーの話であって、もちろんそれは「ニックから見たギャツビーという男」っていうことなんだけど、やり方としてはニックの主観と観客の視点を同化させていく…というのがベタでいい方法だと思うんですよね。ところが今回の場合だとどうにもニックですら観客からは客観視されてしまうというか、彼の感情の起伏に対していまひとつ説得力が欠けているし、度重なる現在ニックの登場でちょっと彼に対してもミステリアスなムードが生まれてしまっているんですよねぇ。。うーん。


名優揃いにも関わらず
全体的にキャスティングが見事な一方で、芝居で物語を魅せていこうという姿勢が希薄に感じました。後半はどちらかといえば映像効果よりは役者側に寄って行くんですが、それもいまひとつ不十分ですね。特に作品全体を通してとにかくカットが短くてめまぐるしすぎる。メリハリをつけて最初だけかな…と思っていたんですが、後半もそこまで役者をじっくりと見せる撮り方ではなかったように思います。せっかくの好キャストが台無し。あら筋はあるものの、あれではプロットすら観客には伝わらない。(誰と誰がどういう関係でいま何が起きたの…?というのが分かりづらい。)ましてや作品が持つ悲劇性などまったく感じられません。


今さら原作をぺらぺらーっとめくってみると、やっぱり今作とは細部にかなり異なる部分がありますね。なんとなく、「グレート・ギャツビー」を下敷きにした別作…くらいの意識で観た方がいい気させします。


特に思うのは、ギャツビー死後のシーンが大幅にカットされていること。原作では死んで口を閉ざしたギャツビーの世話をニックがしたり、そこへ場違いな電話をかけてくる輩に彼が辟易としていく様子。そして何よりギャツビーの父親が登場して、ギャツビー自身の性格を裏付けるちょっとした小道具を見せるシーンなんかが描かれていますが、映画ではただ「葬式には誰1人こなかった」というあっさり過ぎるくらいの扱いでした。また、映画ではギャツビーの死と同時に退場していくブルジョワ達ですが、原作ではニックが後日彼らにあって会話をするシーンなどが挿入されており、ニックの彼らへの視線というのが上塗りされています。


やはり全体的に、ギャツビーがいかに純粋でひたむきな情熱を燃やした人物だったのか、成金の衣の内側にある本当の彼の姿とはなんだったのか。それを目撃し、たった一人理解したニックの心境はどんなものだったのか。彼らの奇妙な友情と、ニックがギャツビー意外の人間にどうしようもなく感じてしまった軽蔑的な心情、やるせなさ、苦しさ……。そういった、原作を名作たらしめている要素が映画からは殆ど感じられず、ギャツビーその人がただの道化のようにさえ見えてしまうのが残念です。


芝居ではなく演出でガツガツ魅せていく…というのは前半のみにして、後半はじっくりと人間を描く…というやり方でもよかったんじゃないでしょうか。なーんて偉そうなこと言えるような立場でもありませんがね。ま、これを機に、より一層ペシミスティックそうな村上訳で原作を読み返してみようかな。


とまぁ、ある意味いさぎよい映画化でしたが、是非とも違ったアプローチの映像化も観てみたいですね。(テレビ映画版もあるんだっけか?)


もちろん「だがそれがいい!!」という読み方もあると思います。


未見の方は、時代の目撃者となるべく是非とも劇場で鑑賞することをお勧めします。


ちゃんちゃん。


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

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グレート・ギャツビー

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華麗なるギャツビー [DVD]

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『グレート・ギャツビー』の読み方

『グレート・ギャツビー』の読み方