隣の世界の覗き窓

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ももいろそらを(2013)〜その3〜

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前回に引き続き「ももいろそらを」について。ソフト化されるのはいつ頃でしょうかね。待ち遠しいです。小林監督は次回作を鋭意製作中とのことですよ。


前回のエントリはこちら↓↓↓
ももいろそらを(2013)〜その1〜

ももいろそらを(2013)〜その2〜


前回のエントリでは、登場人物たちの10代らしい危うい倫理観のぶつかり合い、そして拾った財布の行方…という2つの要素によって物語が動いているということを書きました。これだけで物語としては自然に観ていけるものになっています。今回は、その物語がどこから出発してどこへ帰結したのか…というあたりについて書いて、今作のレビューをおしまいにしようと思います。


いづみの視点
今作は2035年に40歳のいづみが過去を振り返る…という視点から語られています。一応、それゆえのモノクロ映像という設定のようです。映画冒頭でいづみの独白的な文章が出てきますが、上記の設定はちょっと分かりづらいですね。僕は終始、この映画のエピソードそのものが2035年の話なんだと思ってました。


何らかの罪を犯した
たぶんこれからも何らかの罪を犯すであろう
善を求めるなら
全てを受け入れなければならない
私はいまだにできないでいる
2035年9月 いづみ



40歳のいづみってちょっと想像できませんが(笑)、どんな感じでしょうかね。姉御肌のサバサバっとした女性でしょうか。まさか本物の寅さん的フーテン生活というわけではないでしょうw 結構ちゃんと大人としてやってそうだよなーと勝手に思ってます。


それはさておき、いづみは40歳になっても、いまだにこの高校一年生で経験した出来事を心に留めているということが分かります。大人になっても、子どもだった“あの頃”から何一つ成長してないな…って思うこと、僕たちにもありますよね。大人と子どもって、案外変わらない。ほんのちょっと、出来ることが増えたり、考え方が変わったり、そんな小さな変化の繰り返しなんですよね。そして「ももいろそらを」で語られるエピソードは、いづみにとってそうした変化のうちの、ごく初期に体験した…小さいなかでも大きな意味を持つ、そういう種類の出来事だったのでしょう。


たった一つの行動から生まれた矛盾
前回のエントリにも書きましたが、いづみは非常にアンバランスな倫理観の下で生きています。学校をサボり、釣り堀にフラフラと出没するいづみ。財布を拾って一度は届けようとするものの、落とし主が天下りの金持ちの息子と知るやネコババし、印刷屋の親父に勝手にあげてしまおうとするいづみ。街のどこもかしこも自分の庭のごとく、我が物顔で振るまういづみ…。そして、毎日新聞を読み、世の中の出来事にマイナス評価をし続けるいずみ。どれも等身大のいづみの姿です。


新聞を読み、記事を採点するという行為を通じて、いづみは毎日世の中を値踏みをしています。採点はほぼマイナスばかり。欺瞞や利己に満ちた社会を嫌悪し、世間をどこか見下した姿勢がいづみの態度や発言ににじみ出ています。10代や若者特有の万能感に類するものでもありますが、いづみも場合は身近な親や教師、学校といったものではなく、社会そのものが気に食わない…といった様子ですね。財布をネコババしたいづみも最初は強気ですが、事実がバレると蓮実や佐藤に対して強くは出られません。悪事への後ろめたさがあり、アンフェアなことが大嫌いな自分の倫理観に抵触するからです。そこで自分の行動と思想のあいだに生まれた矛盾に気づくのです。


そんないづみが借金返済のかわりに、佐藤から新聞作りを依頼されます。しかもよいニュースしか書いていない新聞。ふだんマイナスな記事ばかりに採点をしているいづみが明るいニュースだけの新聞を造るという皮肉が面白いです。


いづみにはそんな行為は単なる偽善にしか思えません。また、交換条件にそんなことをやらせる佐藤(自分が女の気を惹きたいだけでは?)や、佐藤に好かれるために新聞づくりに励む蓮実、世の中に溢れる「一見して良い行いに見えるが、その実は利己的な思惑が絡んでいること」…そうした事柄すべてが偽善に思えて、吐き気がすると思っているのです。


「ただのバカだ私は」
ところが物語が終盤へ進むにつれていづみの自分に対する正当性は崩れていきます。蓮実は利用された挙句に失恋。佐藤は同性愛者で実は入院中の恋人は男の子。さらに彼は不慮の事故で死亡してしまいます。不平もいわず協力していた薫の家庭は崩壊気味で、彼女は一人そのバランスを背負おうとしていました。そして何の因果か、佐藤が病院でつくっていた新聞の受注で印刷屋は潤い、10%の利子つきでいづみの手元には金が返ってくるのです。


こうした事態の帰結にいづみは困惑します。果たして自分がしたことはなんだったのか…と。


蓮実は自分勝手ではありますが、佐藤への純粋な恋心で一生懸命に行動していました。恋のきっかを作ったのはいづみですが、それを利用した挙句に使い捨てたのもいづみです。自分の軽卒な行動で友人を不必要に傷つけてしまいました。


薫は年齢を偽ってチャットで金を稼いでいますが、それは私欲ではなく、家庭の経済を歪んだかたちで支えるためでした。そんな影を一切見せず、友達に協力していました。いづみは彼女の成果に頼りきり。しかもチャットを私欲のために薫に紹介させたりしていました。


佐藤は同性愛の恋人に一途な思いをよせていました。入院中の彼をどうにか元気づけたいという思いは本物でした。最後には恋人を失いますが、哀しみに気がフれる様子を見せることもなく、淡々といづみと会話します。いづみは彼の依頼が女の気を惹きたいだけの欲望からくるものと思いこんでいました。そんな彼にいづみのしたことと言えば、金を盗み、さんざん罵声を浴びせたくらいでした。


自分は一体何をしたのか?いづみは拾った財布を盗み、20万円を印刷屋に勝手に貸しただけです。友人たちが、(利己的な不器用さがあるものの)純粋に善を求め、行動し、理不尽を引き受けたのに対し、いづみはただ罪を犯しただけです。


彼女は日々世間を見下し、軽蔑し、自分は偽善を行うあいつらとは違うと棚上げしながら、実は自分の手ではなにもせず、何も求めず、何も受け入れる気もない最も愚かだったのは自分だったのだと、彼女は皮肉にも(最も愚かで何もすることのなかった自分の)手元に戻ってきた大金を見つめ、気がつくのです。


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ぐったりするいづみ。


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「偽善が一番金になるね」



最後にほんの少しだけ動くいづみ
最終的に、いづみは返ってきた金を佐藤に返し、余った金で、生前に和己の話していたピンク色の空を実現させようと、煙玉を買って焼き場に持っていきます。物語はここで終了ですが、果たしてその“ピンクいろのそら”がどんな色だったのかは、モノクロで撮影された映像からは分かりません。それがいづみの目にどんな色に映ったのか……きっとそれは彼女にしか分からず、そして何色になったのかということは本質的には重要ではないのだと僕は思いました。


彼女の心が一連の出来事の中でどのように変わったのか。彼女が何を見て、何を感じ、彼女の手元に最後には何が残ったのか……。それが大切なことなのです。


拾った財布の金を勝手に使ったいづみ。金はめぐりめぐっていづみの元に返ってきて、煙玉となり、その煙玉が“ピンクいろのそら”になり、いづみはその空を見上げました。これこそが物語を通じた最大のメタファーですね。


そして物語の主題はやはり、冒頭のいづみの言葉に繋がっていくのでしょうね。


何らかの罪を犯した
たぶんこれからも何らかの罪を犯すであろう
善を求めるなら
全てを受け入れなければならない
私はいまだにできないでいる
2035年9月 いづみ



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2人で煙を見上げるラストシーン



最後に少しだけ動くいづみの姿から何かを感じて欲しい…というのは監督もインタビューで答えていました。そして煙をピンクにしなかった理由は、ひとつは某黒沢映画の模倣となること。そしてやはり煙の色よりも、いづみ達が動いたことの方が大切だから…という思いからのようです。


3回ぶんもエントリを消費してしまいましたが、こうして思い返してもやっぱりいい作品だったなぁと思います。映像も芝居も脚本も、全てが一体となって作品をひとつの世界に昇華させています。こういう作品に出会えるから映画鑑賞はやめられませんよね。小林監督の次回作にもとっても期待しています。楽しみだなー。


ちゃんちゃん。



【追記】書くタイミングがなかったのですが、今作はBGMがない変わりに効果音等々がかなり誇張されて聞こえてきます。とくにいづみの表情と共に、それらの音から感情の揺れ動きが伝わってくるのが面白いです。新聞をくしゃくしゃにしたり、釣り堀で竿をばしゃばしゃやったり。

それから、途中道ばたでおばあちゃんを勝手に撮影していづみが逃げるシーンもいいですね。「臆病者」みたいなこと言われてますが、いづみの小物っぽさが分かる挿入ですね。


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ばしゃばしゃ