隣の世界の覗き窓

映画とか…漫画とか…虚構の世界をレビューするブログです。

マイク・ミルズのうつの話(2013 ※日本公開)

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監督:マイク・ミルズ 
製作:カラム・グリーン、マイク・ミルズ、保田卓夫
撮影:ジェームズ・フローナ
【作品概要】「サムサッカー」「人生はビギナーズ」のマイク・ミルズ監督がうつ患者の日常を映しだし、その姿を通して現代社会が抱える問題を描き出すドキュメンタリー。日本では15人に1人がかかっていると言われ、特に2000年代に入ってから社会的にも大きく広まっていったうつ病。製薬会社によって行われた「心の風邪をひいていませんか?」という広告キャンペーンがうつ病の存在を広く知らしめたと考えたマイク・ミルズ監督は、それを検証すべく、急速にうつが常識化した日本を舞台にカメラをまわしはじめる。日本人うつ患者の日常を優しく明るい視線でとらえ、うつという現代病に対する対処法や社会の問題点を考察する。(映画.com)


心の風邪”の患者達。
マイク・ミルズが見たゼロ年代のTOKYO −

 「マイク・ミルズのうつの話」は2013年10月に渋谷アップリンクで公開された長編ドキュメンタリーである(2013年12月現在公開中)。東京に住む5人のうつ病患者の日常を追ったポートレート作品だ。マイク・ミルズ監督は日本ではもっぱら「人生はビギナーズ(2010)」「サムサッカー(2005)」という長編映画でお馴染み。両作品とも、心のバランスを崩した主人公が苦悩しながらも周囲の人間と折り合いをつけて暮らしていくハートフルストーリーだ。率直で繊細な描写ゆえに、鑑賞者は主人公達と共に痛々しく傷つけられるが、やがて再生へと結実するプロットに安堵を覚える。

 
 心のバランスを崩した者たち…という主題において「マイク・ミルズのうつの話」も上記二作と相通じる系譜にある。しかしながらドキュメンタリーたる今作においては、物語映画のようにうつ病患者たちを救済に導くプロットはもちろん不在である。公募によって選出された5人の出演者は、東京の片隅で淡々と日常を暮らしていく。彼らは果たして再生へ向かっているのか、あるいは絶望の泥沼に少しずつ引き寄せられているのか…。カメラにも、観客たる我々にも、そして誰より出演者自身にもそれは分からない。

 
 作中ではナレーションや解説の類いは一切排除され、ミルズ監督の質問とそれに答える出演者、最低限のテロップによって構成される。その中で唯一、恣意的に提示されるのが日本の抗鬱薬に関する情報だ。そもそも原題である“ Does your soul have a cold? ”(あなたの心は風邪をひいていますか?)自体、アメリカの製薬会社が行ったうつ病の認知度アップキャンペーン(1999年)のコピーそのものである。今作の出演者もほとんどがこのキャンペーンCMを知っており、治療を開始するきっかけになったと答えている。そしてもちろん彼らは製薬会社がスポンサーであることは知らない。

 
 実際に、うつ病で医療機関を受信する患者の数は1999年の44万人から2008年の104万人へと倍増している。日本で急激に増加する“うつ”という現象に、ミルズ監督は製薬会社のマーケット戦略という小石を投じることで、画面と観客のあいだに静かな波紋を起こそうというわけである。

 
 作中では5人の出演者が抗鬱薬を服用する様子と共に「PAXIL 35MG」「DEPAS 10MG」といった、薬の種類と量に関するテロップが表示される。出演者のミカは「うつ病ではなく抗鬱薬との戦い」とコメントし、断薬時の激しい離脱症状に苦しむ姿も映される。比較的治療歴の浅いカヨコは「効果は分からないが安心するために薬を飲む」とも言う。彼女の話を聞くカウンセラーの応対はいかにも無力そうに響く。エンジニアのダイスケは医者からカウンセリングの提案すら受けなかったという。投薬治療頼りの日本の精神医療の現状が浮き彫りになる。

 
 果たして日本のうつ病患者急増は欧米の製薬会社の陰謀によってもたらされたのだろうか。うつ病“予備軍”を巧みに医療機関へ誘導し、薬漬けにすることで治療を先延ばしにしているのだろうか。もちろんそのような攻撃的/批判的な帰着もあり得るかもしれない。しかし今作の監督はマイケル・ムーアではなく、マイク・ミルズだ。彼は「サムサッカー」や「人生はビギナーズ」で見せた被写体への繊細なまなざしを、より注意深く5人の患者達に向けていく。彼らの息づかいが聞こえるほど、徹底的に寄り添っていくことで、当初に自身が投げかけた問いが次第に空転していくことに気づくのだ。

 
 うつ病歴15年のタケトシを始め、出演者は皆、自分自身をコントロールする手段を模索している。彼は「自分自身が主治医」と言い、毎日の気分の変化を細かくノートに記録している。うつに関する本は自宅に数十冊。自助グループにも積極的に参加し、ジムでの運動も欠かさない(彼は体格も良く、ハンサムな出で立ちで一見してうつ病とはわからない)。最も印象的なのはバイセクシャルのケンだ。普段からホットパンツに生足ハイヒールという風変わりな出で立ちの彼は、縄で縛られることによって心が満たされると言い、緊縛教室に通う。縄師の女性も「彼の精神を自由にするために奉仕している」らしい。

 
 また、彼らは病気や薬との関係に苦しみながらも、自身がいかにしてうつ病になったか、何故抜け出せないのかということに懸命かつ冷静に向き合っている。カヨコは幼少時に受けた両親からの暴力を、ミカは映画「es」から受けた精神的ダメージを、ケンは他人に嫌われないように自己を抑圧してしまうパーソナリティについて自己分析している。彼らは自分たちの苦しみに“うつ”という解を与えてくれた、製薬会社のCMについて感謝さえしており、概ね好意的に捉えている。

 
 出演者たちが暮らすのは、人里離れたサナトリウムや真っ白な大学病院の中ではなく、東京の街の片隅だ。マイク・ミルズの目を通した渋谷の街並は灰色で息苦しく、日本人の生活は狭小的である。うつ病とは何なのか、薬は悪なのか?…こうした疑問に答えはないが、ありのまま切り取られた出演者達の映像の前で、当初、恣意的に挿入された抗鬱薬のテロップが虚しく宙づりにされてしまうことは確かだ。薬の服用シーンから始まったものの、最後はミカが絵の具でペインティングする姿で幕を閉じる構成にもそれは象徴的である。

 
 日本に蔓延するうつ病は、確かにここ十数年に渡って急増した「ゼロ年代の病」ともいえる。そして今や生涯で15人に1人が経験するとさえ言われているのが現実だ。次にこのスクリーンの向こうに立つことになるのは、あなたの家族、友人、同僚…あるいはあなた自身かもしれない。今作は、そんな日本の姿に一石を投じるドキュメンタリーだ。マイク・ミルズが起こしたこの静かな波紋は、我々の心にじわりと浸透していくような温もりがある。病への即効性はないかもしれないが、良質なセラピーとなり得る一本だ。


(某媒体掲載を前提に書いた原稿ですが、日の目を浴びなかったため、加筆修正して投稿してみました。)



『マイク・ミルズのうつの話』予告編 - YouTube

6月も終わり…


こんにちは。まぁちゃんです。


つたないブログですが、読んでいただいてる皆さん、本当にありがとうございます。


6月もいよいよ終わり…、ブログも開設から二ヶ月ほど経ち、レビューがやっとこ20本弱ほどたまってきました。


まだまだスタイルが定まりませんが、なるべく自分の書きたいようにやっていこうと思います。


作品を観て、感じて、思うことがいろいろあるんですが、やはり言葉・ブログという媒体で表現しようとすると欲張ってしまうのか、散漫でまとまりに欠けるものになりがちだなと感じます。


思い入れが強いものほどうまく書けないのが歯がゆいですね。


最初からスマートにやれるはずもないのですが、悔しい部分もやはりあります。


もっと素直に、もっと思い切りよく、もっと活き活きとした文章にしたいものです。


とりあえず映画は半期で70本鑑賞。いいペースです。書くペースも上げられたらいいなー。


そんなわけでまぁ寝る前にぼんやりと更新です。


今後もよろしくお願いします。


ちゃんちゃん。

言の葉の庭(2013)

言の葉の庭(2013)
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監督・原作・脚本:新海誠
キャラクターデザイン・作画監督:土屋堅一
キャスト:入野自由花澤香菜
     平野文前田剛
     寺崎裕香
【作品紹介】雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、繊細なドラマと映像美で国内外から人気を集めるアニメーション作家・新海誠監督が、初めて現代の東京を舞台に描く恋の物語。靴職人を目指す高校生タカオは、雨が降ると学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。そんなある日、タカオは謎めいた年上の女性ユキノと出会い、2人は雨の日だけの逢瀬を重ねて心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノのために、タカオはもっと歩きたくなるような靴を作ろうとするが……。キャラクターデザイン、美術、音楽など、メインスタッフには、これまでの新海作品とは異なる新たな顔ぶれがそろう。短編「だれかのまなざし」が同時上映。(映画.comより)



『言の葉の庭』 予告篇 "The Garden of Words" Trailer - YouTube


新海誠監督の新作。とっくに観ていたのにレビューが遅くなってしまいました。。はてなブログの旬のトピックにもずっと出ていたんですが、完全にタイミングを逃してしまった……orz


さて、今作について最初に述べておきたいことが一つ。
絶対に6月中に新宿バルト9で鑑賞してください!!※本稿執筆6月26日


そして観賞後はその足で新宿御苑へ向かいましょう。6月が終わっても梅雨明けしてなければまぁいいかな(笑)
次点は9月ですが、その頃には観れる映画館も少ないでしょうしね…。。


最新作は純愛中編
待ちに待った?新海映画。今回は長編とは言いがたい長さの小品に収まっています。上映時間は46分ですが、体感としてはもう少し長く感じましたね。同時上映の「だれかのまなざし」やその他の予告編のせいかもしれませんが。


内容は15歳の男子高校生と27歳の女性の純愛?もの。キャラクターのビジュアルと合わせて、今までの新海作品よりも大人な登場人物設定に思えます。今まで一貫して?近くて遠い、あるいは遠くて近い…引き裂かれた二つの世界と人間同士の距離…といったものを扱ってきた新海映画ですが、今作では唯一、“歳の差”がその種のモチーフということでしょうか。


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頭身どうなってるんでしょうかね……


新海誠初のリアリズム映画?
観賞後にまず個人的に覚えた感想は、「今までこんなにもリアリズムな語りに徹した新海作品があっただろうか。(いやなかったよね?)」ということです。「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」「星を追う子ども」はそれぞれSFやファンタジー的な舞台設定が物語を下支えしていたし、「秒速5センチメートル」はリアリズム作品ではありますが、“種子島”という主人公にとって異邦な土地が舞台として挿入されました。


これらの作品に比べ「言の葉の庭」は、東京都内…それも新宿近郊という限定的な空間を舞台にしています。宇宙戦争が始まるとか、突然モンスターが現れるとか、地下に広大な異空間が拡がっているとかの設定もありません。現代の新宿でごくごく普通の人間同士が繰り広げる、現実の世界を舞台とした物語です。


また、天候や背景がやや超現実的な誇張を帯びて雄弁に主張していた印象の強い新海作品ですが、今作ではそういった要素が自然な表現に落ち着いていると感じました。これは僕1人の主観ではないと思います。ちょっと具体的に例示ができないんですけどね…(怠慢)


そんなわけで、新海誠作品の中でも新しい傾向にあるものがリリースされたという印象を強く受けました。


美しくリビルドされる新宿御苑
今作一番の見どころはやはり、新海アニメーションで構築された新宿の街並、そして都会のオアシス新宿御苑でしょう。今まで新海作品では基本、都会について好意的にとれるシーンが少なかった(ような気がする)んですよね。ほんと暗かったり辛かったりな場面が多かったんです……。。それが今回はロマンティックな恋の舞台として、この東京の最もアーバン?といっても過言ではないコンクリートジャングルが描かれるのですよ!これまたなんだか新鮮です。



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3丁目方面から見た甲州街道


自分がふだん観ている街並がアニメーションとして蘇ること……それがこんなにエキサイティングなことだとは!!感嘆必至のシーンばかりです。特に、新宿という都市のど真ん中に、平日は半ば忘れられたようにひっそりと存在する新宿御苑(しかも雨の日ばかっかり)を、日常から隔絶された逢瀬の舞台としてチョイスしたのが素晴らしいです。


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空撮したんでしょうかね…。美しい…。


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新宿御苑


“歳の差”という距離
物語は15歳の男子高校生タカオと、27歳の国語教師ユキノのラヴ(未満?)ストーリーです。前半は主にタカオの、後半はユキノのモノローグで語られ、終盤で二人の視点が交わり、最後にはタカオ視点で物語が結ばれます。全体としてはタカオ寄りの語りになっているのですが、こうした一人称視点の比重のアンバランスさや、キャラクターの掘り下げの差が、そのまま二人の恋愛(といえるのかはさておき)に対する想いの強さの差に繋がっているようで面白いと感じました。


10代半ばの男の子と20代後半の女性が対等なレベルで関係を捉えることができるかというと、そうではないというのが現実でしょう。ユキノについて何も知らないまま恋心に焦がれるタカオと、タカオに好意と依存心を持ちながらも、彼が自分の学校の生徒だということを知っているユキノ。教師と生徒という設定が(ありきたりではあるものの…)絶妙で、ユキノにとってタカオが社会的に手を出してはならない存在であるという壁がきちんと設定されています。(昨今は歳の差恋愛にも寛容ですからね。この設定でブレーキをかけるのは大事です)


ユキノをひたすらに“女性”として見続けるタカオと、タカオをシンプルに“男性”とはみることのできないユキノ。ユキノにとってはどうしても大人としてのあらゆる経験・知識・立場etc…があるために、純粋に“個”と“個”としてお互いの関係を捉えることができない。こうした“歳の差”ゆえのギャップが、“知らないタカオ”と“知っているユキノ”という構造、そして教師と生徒という設定により、説得力をもって描かれています。うまいなぁー。


結局、タカオはユキノのことをひたすら想い続けますが、対するユキノは自分のことしか考えていません。ここんところがやっぱり残酷ですなー。ユキノは他者に向き合える状態ではない自省モードだからということもありますが、潜在的にタカオを自分と対等なフィールドに想定していないんですね。それで最後に「そんなのひどいよ!」とタカオに怒られちゃうわけです。


ほんと、二人のこの台詞がすべてですね…。

「あの人にとって、15の俺は、きっとただのガキだということ。」

「27歳の私は、15歳の頃の私より、少しも賢くない。」


キレイ(すぎ)なお話でした
全体的にとてもキレイな描写とまとまり方で、個人的にはちょっと物足りませんでした。なんだか今までの新海監督っぽい、中二臭さとか、とがった感じとか、ちょっとフェチな感じ(?)とか、そういうものが全部オブラートに包まれて、いや包まれてもおらず、キレイに見せたらこんなにスマートな味わいにできるんですよーという器用さの下にすっかり隠されてしまっておりました。。


題材だけ考えるとこれ、ものすっごくフェティッシュな描き方ができるはずの話なんですよ。生徒と教師、歳の差恋愛、雨に濡れる2人、靴を作るタカオの手、20代のOL風美人、同僚とあったっぽい不倫、年上の女性の一人暮らしの部屋、そして何より脚という身体へのフォーカス……。やろうと思えばいくらでもフェティシズムを喚起させられるんですよ。でもそれをやらない。行為は行為として、事実は事実として、それ以上の意味を画面には持たせない…そういうストイックさを強く感じました。


特にタカオがユキノの脚を触らせてもらうシーン。あそこ、あんなにきれいなもんかよおおおおお。タカオみたいな年頃(じゃなくても)の男の子があんなことしたら、もっとドキドキハァハァするもんだろうがよおおおおおお。そういうのやってくれないのかよおおおおおおお!!……とか劇場でずっと思ってましたよ僕ぁ…(笑)
まぁ、それをやらない故のタカオのピュアさ、一途さ…ということなんでしょうね。


(監督のインタビューではあのシーンについて、大前提として美しい行為であることを重視したみたいに言っていたような気がします。そして見ようによってはいやらしくも捉えられるよね…という。その意図は大成功していると思いますね。あぁ…。)


(勝手に思ってますが、新海さんは絶対20代のちょい上手くいってない系OLフェチです。)


そういうわけで、エロスを喚起する演出もなく、非常にきれいな作品として仕上がっています。キャラデザなんかもあいまって、今作は圧倒的に女性向けであると私は断言しますよ。もはやこれ、少女漫画なんですよ。ダメな女に、頼れる系の純情すぎる男。しかも禁断の年下高校生という設定。はい。ライトな描写を愛好する女性の皆さんは是非とも劇場へGOです。


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キャーーー!!!



シンプルで分かりやすい、からこそ物足りない
しつこいようですが、やっぱり物語としては個人的に物足りなかったです。作品としてはきちんと完成されているので、これ以上のやり方というのは目指すところを変えないかぎりできないし、そうするとまた全く違う作品になってしまうので、あくまで感想とか好みとして、、というレベルで。


特にやっぱり、ユキノというキャラクターの掘り下げがどうも浅すぎるんじゃないのかなってところが一番ひっかかりました。前述した通り、タカオとユキノの想いの比重が反映されてて、それはそれでいいなとも思うんですが、やっぱり彼女の行動原理がよくわからないし、どんな想いの揺れがあったのかというのが分かりづらいです。ま、タカオにもよく分かんなかったということなんでしょうけどもね。


(僕自身がユキノと同じような境遇を知っているということもあるかと思います。そのぶん、もっと突き詰めてくれよと思ってしまう。でもまぁ、タカオにもユキノにも両方感情移入はできました。)


階段のシーンでタカオが叫ぶところも、なんか言ってることが見当違いだし、演出が不自然に冗長になってしまってて微妙だなーと思ったりしちゃいました。もう少しさりげない感じでもよかったんじゃないかなー。


それから、やっぱり新海さんのスタイルだと、短編〜中編というのが長さとしては適切なんじゃないのかなーと改めて思いました。「秒速〜」も短編3作っていうのがよかったんですよね。「星を追う子ども」を観たとき、これを長編で見せられるには物語が間延びしすぎている……とか感じたくらいです。「言の葉の庭」でも長いくらいに思ったくらいです。


いずれにせよ、これからもどんどん模索していって欲しいですね。


技術とかスタイルについては、今作で間違いなく洗練されたレベルに達したということを見せつけられました。


せっかく以前のエントリで、新海作品の共通点……みたいなことを書きましたが、今回は思いっきり逸脱されましたしね…(笑)


そうそう、同時上映の「だれかのまなざし」もよかったです。


ユキノさん可愛かったなー。


ちゃんちゃん。


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ユキノさん…



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ももいろそらを(2013)〜その3〜

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前回に引き続き「ももいろそらを」について。ソフト化されるのはいつ頃でしょうかね。待ち遠しいです。小林監督は次回作を鋭意製作中とのことですよ。


前回のエントリはこちら↓↓↓
ももいろそらを(2013)〜その1〜

ももいろそらを(2013)〜その2〜


前回のエントリでは、登場人物たちの10代らしい危うい倫理観のぶつかり合い、そして拾った財布の行方…という2つの要素によって物語が動いているということを書きました。これだけで物語としては自然に観ていけるものになっています。今回は、その物語がどこから出発してどこへ帰結したのか…というあたりについて書いて、今作のレビューをおしまいにしようと思います。


いづみの視点
今作は2035年に40歳のいづみが過去を振り返る…という視点から語られています。一応、それゆえのモノクロ映像という設定のようです。映画冒頭でいづみの独白的な文章が出てきますが、上記の設定はちょっと分かりづらいですね。僕は終始、この映画のエピソードそのものが2035年の話なんだと思ってました。


何らかの罪を犯した
たぶんこれからも何らかの罪を犯すであろう
善を求めるなら
全てを受け入れなければならない
私はいまだにできないでいる
2035年9月 いづみ



40歳のいづみってちょっと想像できませんが(笑)、どんな感じでしょうかね。姉御肌のサバサバっとした女性でしょうか。まさか本物の寅さん的フーテン生活というわけではないでしょうw 結構ちゃんと大人としてやってそうだよなーと勝手に思ってます。


それはさておき、いづみは40歳になっても、いまだにこの高校一年生で経験した出来事を心に留めているということが分かります。大人になっても、子どもだった“あの頃”から何一つ成長してないな…って思うこと、僕たちにもありますよね。大人と子どもって、案外変わらない。ほんのちょっと、出来ることが増えたり、考え方が変わったり、そんな小さな変化の繰り返しなんですよね。そして「ももいろそらを」で語られるエピソードは、いづみにとってそうした変化のうちの、ごく初期に体験した…小さいなかでも大きな意味を持つ、そういう種類の出来事だったのでしょう。


たった一つの行動から生まれた矛盾
前回のエントリにも書きましたが、いづみは非常にアンバランスな倫理観の下で生きています。学校をサボり、釣り堀にフラフラと出没するいづみ。財布を拾って一度は届けようとするものの、落とし主が天下りの金持ちの息子と知るやネコババし、印刷屋の親父に勝手にあげてしまおうとするいづみ。街のどこもかしこも自分の庭のごとく、我が物顔で振るまういづみ…。そして、毎日新聞を読み、世の中の出来事にマイナス評価をし続けるいずみ。どれも等身大のいづみの姿です。


新聞を読み、記事を採点するという行為を通じて、いづみは毎日世の中を値踏みをしています。採点はほぼマイナスばかり。欺瞞や利己に満ちた社会を嫌悪し、世間をどこか見下した姿勢がいづみの態度や発言ににじみ出ています。10代や若者特有の万能感に類するものでもありますが、いづみも場合は身近な親や教師、学校といったものではなく、社会そのものが気に食わない…といった様子ですね。財布をネコババしたいづみも最初は強気ですが、事実がバレると蓮実や佐藤に対して強くは出られません。悪事への後ろめたさがあり、アンフェアなことが大嫌いな自分の倫理観に抵触するからです。そこで自分の行動と思想のあいだに生まれた矛盾に気づくのです。


そんないづみが借金返済のかわりに、佐藤から新聞作りを依頼されます。しかもよいニュースしか書いていない新聞。ふだんマイナスな記事ばかりに採点をしているいづみが明るいニュースだけの新聞を造るという皮肉が面白いです。


いづみにはそんな行為は単なる偽善にしか思えません。また、交換条件にそんなことをやらせる佐藤(自分が女の気を惹きたいだけでは?)や、佐藤に好かれるために新聞づくりに励む蓮実、世の中に溢れる「一見して良い行いに見えるが、その実は利己的な思惑が絡んでいること」…そうした事柄すべてが偽善に思えて、吐き気がすると思っているのです。


「ただのバカだ私は」
ところが物語が終盤へ進むにつれていづみの自分に対する正当性は崩れていきます。蓮実は利用された挙句に失恋。佐藤は同性愛者で実は入院中の恋人は男の子。さらに彼は不慮の事故で死亡してしまいます。不平もいわず協力していた薫の家庭は崩壊気味で、彼女は一人そのバランスを背負おうとしていました。そして何の因果か、佐藤が病院でつくっていた新聞の受注で印刷屋は潤い、10%の利子つきでいづみの手元には金が返ってくるのです。


こうした事態の帰結にいづみは困惑します。果たして自分がしたことはなんだったのか…と。


蓮実は自分勝手ではありますが、佐藤への純粋な恋心で一生懸命に行動していました。恋のきっかを作ったのはいづみですが、それを利用した挙句に使い捨てたのもいづみです。自分の軽卒な行動で友人を不必要に傷つけてしまいました。


薫は年齢を偽ってチャットで金を稼いでいますが、それは私欲ではなく、家庭の経済を歪んだかたちで支えるためでした。そんな影を一切見せず、友達に協力していました。いづみは彼女の成果に頼りきり。しかもチャットを私欲のために薫に紹介させたりしていました。


佐藤は同性愛の恋人に一途な思いをよせていました。入院中の彼をどうにか元気づけたいという思いは本物でした。最後には恋人を失いますが、哀しみに気がフれる様子を見せることもなく、淡々といづみと会話します。いづみは彼の依頼が女の気を惹きたいだけの欲望からくるものと思いこんでいました。そんな彼にいづみのしたことと言えば、金を盗み、さんざん罵声を浴びせたくらいでした。


自分は一体何をしたのか?いづみは拾った財布を盗み、20万円を印刷屋に勝手に貸しただけです。友人たちが、(利己的な不器用さがあるものの)純粋に善を求め、行動し、理不尽を引き受けたのに対し、いづみはただ罪を犯しただけです。


彼女は日々世間を見下し、軽蔑し、自分は偽善を行うあいつらとは違うと棚上げしながら、実は自分の手ではなにもせず、何も求めず、何も受け入れる気もない最も愚かだったのは自分だったのだと、彼女は皮肉にも(最も愚かで何もすることのなかった自分の)手元に戻ってきた大金を見つめ、気がつくのです。


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ぐったりするいづみ。


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「偽善が一番金になるね」



最後にほんの少しだけ動くいづみ
最終的に、いづみは返ってきた金を佐藤に返し、余った金で、生前に和己の話していたピンク色の空を実現させようと、煙玉を買って焼き場に持っていきます。物語はここで終了ですが、果たしてその“ピンクいろのそら”がどんな色だったのかは、モノクロで撮影された映像からは分かりません。それがいづみの目にどんな色に映ったのか……きっとそれは彼女にしか分からず、そして何色になったのかということは本質的には重要ではないのだと僕は思いました。


彼女の心が一連の出来事の中でどのように変わったのか。彼女が何を見て、何を感じ、彼女の手元に最後には何が残ったのか……。それが大切なことなのです。


拾った財布の金を勝手に使ったいづみ。金はめぐりめぐっていづみの元に返ってきて、煙玉となり、その煙玉が“ピンクいろのそら”になり、いづみはその空を見上げました。これこそが物語を通じた最大のメタファーですね。


そして物語の主題はやはり、冒頭のいづみの言葉に繋がっていくのでしょうね。


何らかの罪を犯した
たぶんこれからも何らかの罪を犯すであろう
善を求めるなら
全てを受け入れなければならない
私はいまだにできないでいる
2035年9月 いづみ



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2人で煙を見上げるラストシーン



最後に少しだけ動くいづみの姿から何かを感じて欲しい…というのは監督もインタビューで答えていました。そして煙をピンクにしなかった理由は、ひとつは某黒沢映画の模倣となること。そしてやはり煙の色よりも、いづみ達が動いたことの方が大切だから…という思いからのようです。


3回ぶんもエントリを消費してしまいましたが、こうして思い返してもやっぱりいい作品だったなぁと思います。映像も芝居も脚本も、全てが一体となって作品をひとつの世界に昇華させています。こういう作品に出会えるから映画鑑賞はやめられませんよね。小林監督の次回作にもとっても期待しています。楽しみだなー。


ちゃんちゃん。



【追記】書くタイミングがなかったのですが、今作はBGMがない変わりに効果音等々がかなり誇張されて聞こえてきます。とくにいづみの表情と共に、それらの音から感情の揺れ動きが伝わってくるのが面白いです。新聞をくしゃくしゃにしたり、釣り堀で竿をばしゃばしゃやったり。

それから、途中道ばたでおばあちゃんを勝手に撮影していづみが逃げるシーンもいいですね。「臆病者」みたいなこと言われてますが、いづみの小物っぽさが分かる挿入ですね。


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ばしゃばしゃ

ももいろそらを(2013)〜その2〜

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実は今年の(まぁちゃん的)邦画No.1かなと思ってる今作。
続きを書くとか言っときながらこのタイミングとなってしまいました。書くこと覚えてるかな。。


前回のエントリはこちら↓↓↓
ももいろそらを(2013)〜その1〜



前回は主に、作品の撮り方の特徴と、いづみが魅力的ですげーんだよということを書きました。今回は、もう少し物語の構造とかテーマの部分について書きたいと思います。


女子3+男子1+大人1
「ももいろそらを」は極度に世界観が限定されています。浅い被写界深度、少ないロングショット、モノクロ映像、BGMなし……。そして何より画面を空間的・時間的に支配する登場人物の少なさです。基本的には女子グループのいづみ、蓮実、薫の3人と男子の佐藤、そして印刷屋の親父…という、女子3+男子1+大人1……という5人の芝居によって物語は構成されています。(一応、かずみくんや、ボウリング場で一役買う女のコ(名前忘れた…)もいますが、登場シーンの限られた脇役ですね。)


そして物語を押し進めているのも、他でもない彼らの芝居のみといっても過言ではありません。舞台装置がほとんどない(唯一の舞台装置は財布です。※後述)なかで、彼女達のあいだにある人間関係の危うい均衡……何よりもこれでもかという(会話というよりほとんど)押し問答の連続が、奇妙で不安定なバランスをとりながら物語の原動力になっているのです。


なんといっても芝居
というわけで、やっぱり見どころはお芝居なわけです。各所のレビューなんかを見ていると芝居については賛否両論。演技の基本ができてない。わざとらしくて見ていられない…という玄人評価のある一方で、リアルな女子高生の会話がお見事…とかいう書かれ方もしています。僕としては両方の主張がよくわかりますが、どちらかというと後者派でしょうか。


というのも、実際高校生を演じた彼らはほとんど芝居初心者。演技指導もかなり大変だったようです。僕も演技についてはまったく詳しくありませんが、いいとか悪いとかを感じることはもちろんできます。で、今回はやっぱりすごくよかったなと。


女子高生の会話って、ふだん飲食店とか電車の中で聞いてると、実はかなり芝居じみててわざとらしい喋り方をしてるんです。ときには聞いてる方が恥ずかしいくらいの演技っぽさがあります(まぁ大人も時としてそうですね)。もちろん全ての女子高生がそんな話し方をするわけではありませんが、ドラマや映画やアニメなどでイイと思った口調や言いまわしを意図的に、あるいは無意識のうちに引用したり、グループ内での役割に応じて、自分というキャラクターを作っていたりします(人間は演じる生き物って言葉もありますが今回はそれは置いておきましょうかね…)。


実社会でのコミュニケーションは、逆にフィクションの世界よりもわざとらしく、素人くさい演技で、舌足らずな口調によってやりとりされているんですね。「ももいろそらを」では、こうしたポイントを逆手にとって、役者のキャリア不足を補いながらリアリティのある芝居として成立させています。(実際、現代の口語というのはテレビ番組に大きな影響を受けているはずです。バラエティタレントの喋り方、お笑い芸人の定型的な文句、役割ごとに誇張されたドラマや映画の台詞…)


いづみが寅さんのマネをしている…という設定は前回も書きましたが、つまりいづみ役の池田愛さんは二重にいづみという人間を演じているわけです。寅さんを引用しながら芝居っぽく喋る女子高生いづみ…という役を演じる池田愛…ということですね。また、いづみという人間は奔放でありながら、接する人間によって態度を変えるという、一般的な器用さもきちんと持ち合わせています。実生活の中での演じ分けですね。この辺は、監督もインタビューで触れており、意図的な演出であったようです。


いづみ意外の高校生3人にも明確なキャラクター漬けがされており、それぞれがある意味で自分という(無意識の)役割を演じているように思います。服装や持ち物なんかも三者三様に分かりやすく違いがあって面白かったですね。



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座り方もみんな違いますね〜。



蓮実
体格もよく、3人の中でもリーダー気質な蓮実。しかし行動規範は3人の中でも一番軽薄で衝動的に見えます。何一つ自分ではやらないくせに仕切りたがる。自分の思うようにならないと威圧的に他二人を従わせる凄味も持っています。周りが見えておらず、自分のことが全然わかっていません。街頭でインタビューに行く際にペンすら自分で持っていないという自覚のなさww 。が、裏を返せば一途に佐藤を思う純粋さは他二人にはないエネルギーを感じます。物語が進むにつれて、新聞づくりにも没頭するようになり、率先して活動するようになります。恋心を通じて、彼女なりのちょっぴりな成長があった気がしますね。



女子の中でも一見、おっとりしたお嬢様タイプに見える薫。なんだか育ちもよさそう。しかしながら、3人の中で一番正直で絶対に本音しか言わないのが彼女。自分の意志でフェアな発言をします。新聞作りでも具体的に手を動かしてブレーンとなっているのは彼女です。他人に頼らず自分のことは自分でやるという頭の良さ、強さもあります。そうした一面の一方で、家庭内では恐らく本音は言えないようです。親の金銭感覚が狂い、自分がエロチャットで稼ぐ金で家族崩壊を防ごうとする危ういバランス…。新聞作りとチャットが忙しいという理由で陸上部もあっさり辞めてしまいます。そして一人で何でもやれる力がある一方で、精神的には友達関係に大きく依存しています。蓮実やいづみに必要以上に献身的になるのは、うまくいっていない家庭事情の裏返しのようにも思えます。


いづみ
女子高生らしいような、らしくないような、妙なアウトロー気質を持っているのがいづみ。高校に友達らしい友達もおらず、1人でプラプラしているようでいて、蓮実と薫という2人の腐れ縁になんとなく依存しています。どんなに気に食わないことがあっても彼女達を切り捨てるという選択肢はなさそう。こうした孤独さを持ちながら、社会を見下し、採点するのが彼女の日課。佐藤のことを天下りの息子と軽蔑しながら、自分は財布をネコババして勝手に中身を他人に貸すという、バランスを欠いた倫理観の下で生きています。そして社会に向けて嫌悪感を剥き出しにしながらも、世の中に対して自分は何もしていません。


佐藤
金持ちの息子。親のへそくりをパクった上に財布を落としたことから事件に巻き込まれます。ぶっきらぼうな喋り方で女子に対してあまり思いやりがあるようには見えません。彼は蓮実の恋心を知りながらも残酷に利用して新聞作りをさせています。まぁそこには自分が落とした金銭も絡んでいるのですが、交換条件で利用してやるという姑息さが見え隠れ。ところがなんと彼は同性愛者であり、病気の和己くんを一途に思い、何かしてやれないかと真剣に考える健気な男の子でもあるのです。気怠い口調で上から目線の彼ですが、いづみとの問答を見ていると、損得勘定や倫理観に関してはフェアでドライな一面があるようです。



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4人の関係が分かりやすいシーン。蓮実が佐藤にあしらわれているのがかわいいような可哀想なようなw



このように高校生達の特徴を考えてみると、全員が10代ならではの、アンバランスな行動規範・倫理観を持って行動しているように読み取れます。ピュアな思いや正義感があるものの、自分に都合がよく、危うさを孕んだ考え方を持っています。こうした4人それぞれのエネルギーがぐらぐらと不安定に均衡しながら物語を揺らし、ストーリーを進めているのです。



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とにかくやたら言い合いになります(笑)



金勘定で揺らぐ関係
上記のような登場人物同士のバランスの他に、もう一つ物語を動かすきっかけとなるのが金勘定です。4人(+1人)は今回、金の流れで繋がっており、そこにお互いの利害関係が絡みながら事態がややこしくなっていく。そして最後はめぐりめぐって、何の因果か持ち主の下へ金が帰ってくる。何よりもいづみが日頃から嫌悪している社会構造の縮図が彼らのあいだに構築されているのです。特に、最初は30万あった金が10万になり、15万になり、12万になり…と、巧みに金額のバランスが変わっていく様子は見事です。社会を動かす装置として、この場合は映画を動かすまさに舞台装置として、拾った財布=金が機能しています。いづみと佐藤のあいだの駆け引きがとても面白かったですね。



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この商店街を歩くシーンの長回しはよかったなー。


…というわけで?
なんとなく、物語を動かす構造がどんなものだったのか、というのを思い返してみました。芝居重視の今作はやはりメインキャスト同士の会話の押収で話が進んでいきます。そして「金」という小道具が唯一と言っていい舞台装置として重要な役割を持ち、登場人物を結びつけていきます。


ほんと、脚本がよく練られていると思いますね。女子3人のキャラクター分けも絶妙なバランスですし、一見、イケメン男子である佐藤が同性愛者だということで、一気に人物像に影と奥行きが生まれます。ともすればいづみと佐藤の恋愛構造になってしまいそうなところを、同時にうまく回避していますね。


またまた長くなったので次回に持ちこし。「ももいろそらを」ってどういう話だったのかなーと振り返りたいと思います。


続きはこちら↓↓↓
ももいろそらを(2013)〜その3〜

華麗なるギャツビー(2013)

華麗なるギャツビー(2013)
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監督:バズ・ラーマン
製作:バズ・ラーマン、キャサリン・マーティン
   ダグラス・ウィック、ルーシー・フィッシャー
キャスト:レオナルド・ディカプリオトビー・マグワイア
     キャリー・マリガンジョエル・エドガートン
     アイラ・フィッシャー
【作品紹介】1974年にロバート・レッドフォード主演で映画化もされた、米作家F・スコット・フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」を、「ロミオ+ジュリエット」のバズ・ラーマン監督&レオナルド・ディカプリオ主演コンビで再映画化。1920年代の米ニューヨーク、ロングアイランド。宮殿のような豪邸に暮らし、素性も仕事も謎めいた大富豪のジェイ・ギャツビーは、毎夜のように豪華絢爛なパーティを開いていた。そんなある日、ギャツビーは、隣人の青年ニックに自らの生い立ちを語り始めるが、あまりにできすぎた物語に、ニックはギャツビーが何か隠し事をしていると直感する。やがてギャツビーは上流階級の令嬢デイジーに心ひかれていくが……。ニック役のトビー・マグワイア、デイジー役のキャリー・マリガンらが共演。(映画.comより)


たまには有名どこも見てますよという記録でも。


時代を背負った名作
あまりにも有名な小説の再映画化ということで、非常にお金がかかっていて話題になっている今作。にわか文学かじりの私のような人種の皆様(失礼)も一度は読んだことがある作品でしょう。ロストジェネレーションの米文学というのはなかなかクセになるものがあります。急激に都会化が進み、好景気に浮き足立つアメリカの都市、一方でその裏側に潜む不気味な不安感や悲劇的な人間模様、社会の濁流に飲まれていく個人の儚さ……これらは高度経済成長やバブル崩壊、その後の景気低迷に喘ぐ我らが極東国家の市民にも心の奥で相通じるモチーフでもあります。


グレート・ギャツビー」は僕も大昔(といっても5〜8年前くらいかな)に野崎孝訳で読んだっきりで、細部については覚えておらず、ただただ悲劇的でやるせない……繊細なイノセンスが壁にぶつけられた卵のごとく、傲慢なブルジョワ達の前に儚く散っていくさまに胸が苦しくなる…そんな印象がただただ強く残っていました。そしてギャツビーのただ1人の理解者であった隣人ニックの目を通して、読者がこの悲劇の一目撃者になるという、そんな追体験的手法が一層我々の心を引き裂くのです。


こうした繊細さやイノセントな魅力をもった人間が、社会のうねりの中に人知れず消えていく…そんな哀しき運命を誰も止めることができないという無力感。実社会に生きづらさを感じる人ほどこのような作品の中に飲まれていってしまうのではないでしょうか。村上春樹氏の新刊を読むかぎりでも結局そこに着地するところが、やはり近代以降…あるいは遥か昔から人間にとっての大きなテーマの一つであるといえるジャンルのような気がしますね。


さてさて、今回の映画化は文学ファンにとっても映画ファンにとっても、そしてそのどちらにも属さない層の方々にとっても非常に好ましいものであったと思います(企画自体は)。実際に公開一週間足らずで日本でもかなりの興行収入があがっているようです(3Dで単価が高いせいもあると思いますが)。


さて、内容について一言で僕の感想を先に書いてしまうと、

「なんかあんまり面白くなかった」

です。。


もうこれは単純に、やっぱり映画なんで、面白かったかどうかで言うと、イマイチだったなぁーと。まぁ確かにバズ・ラーマン監督のメガホンということで、ある程度こういうものになるだろうなぁという予想はたてとくべきなんですが、全体としてはちょっと残念といいますかね。もう少し素材の良さと彼の手腕を共存できたんじゃないの…?とか思ったりしてしまいます。


良くも悪くもラーマン節
「ロミオ&ジュリエット」に現代版として思い切ったリニューアルを試みたり、「ムーラン・ルージュ」でも絢爛なやり過ぎ映像美をもたらした彼ならでは(二作とも未見ですすいません。。)の「グレート・ギャツビー」にはなっています。特にギャツビー邸で行われる悪趣味乱痴気パーティの模様はある意味見事。時代感に変にとらわれず、奔放な表現を追求する姿勢は尊敬に値しますね。3Dという試みもよかったと思います。僕は個人的には、3Dという手法は物語世界の中に観客が入り込んでいくのを促すために効果的だと考えています。アクションとかファンタジーものだけではなく、こうした異なる時代感や、そこに「居合わせる」という視点を観客に与える場合にも有効です。これから史実ものとか時代劇なんかにも取り入れて行ってもらいたいですね。



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画像荒いかな…



ギャツビー邸でのパーティもよかったんですが、どちらかというとニックがトムの愛人と共に連れられていった小さな部屋でのバカ騒ぎのシーンの方が印象的でしたね。原作のイメージとは全然違ったんですが、虚しさという意味で、あぁこういうことでもあるんだなぁ…と胸につっかえてくるものがありました。


さて、今作が残念なのは、こうした貪欲な視覚表現の追求の一方で、やはり肝心なドラマの部分が薄味になってしまったということです。特にキャスティングは素晴らしく、ディカプリオ、トビー・マグワイアキャリー・マリガン、エリザベス・デビッキ、なんかはとっても役にはまっていました。ディカプリオは美しい青年時代を抜けて、最近では文字通り脂ののった男性像を好演することが多くなりましたね。特にどこか倒錯的で悲劇を背負った姿…、華やかさの一方で影があり、危うさを孕んだ男の奇妙で曖昧なバランス……こうした役どころが本当にうまい。今作でもジェイ・ギャツビーにはうってつけの役者だったと思います。



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さらにデイジー役のキャリー・マリガンもとびきりかわいく、まさに弱っちくて自分では何も決められない上流階級のお姫様。でもバカな男からすると守ってやりたい憎めない女。デイジーの場合はそれを自分自身で嘲笑的に自覚しているところが哀しいところです。もっともっとバカに育っていればどんなにか苦しまずに済んだだろうか。そういう彼女の持っている影もまた今作の魅力のひとつです。僕のいちばん大好きな台詞もちゃんと(あまりに重要な台詞なので絶対に省かれるはずはないんですが。どれだか分かるかな?)彼女の口から聴くことができてまぁよかったなと。(が、やはり映画版は原作よりもデイジーのキャラクターも薄かった気がします。原作ではもうちょっと頭のいいところ、それ故の哀しみがあったような。)



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ニック役のトビー・マグワイアもGOOD。優等生的でどこかブルジョワ階級には馴染めないニックがやはりお似合いという感じ。いつ手首から糸が飛び出すかとひやひやすることもなく(笑)観れましたね。


ニックの立ち位置
けれども、今回、どうにもいまひとつに思えたのが、作品全体として、ニックの一人称の語りに頼り過ぎている気がするんですよね。最初から最後までとにかく終始ニックニックニックニック!お前の現在からの視点ってそんなに必要か?と。彼の現在の姿…というのはそこまで重要なファクターじゃないのではないでしょうか。モノローグとして挿入するくらいならいいかと思うんですが。。。もちろんこうした回想をつかった物語へのいざない…というやり方で、やはり3D的な手法を用いた効果を狙った映像づくりはされているんですが、なんかあんまりそれ有効じゃないんじゃないの…という印象です。


あくまで「グレート・ギャツビー」って、ギャツビーの話であって、もちろんそれは「ニックから見たギャツビーという男」っていうことなんだけど、やり方としてはニックの主観と観客の視点を同化させていく…というのがベタでいい方法だと思うんですよね。ところが今回の場合だとどうにもニックですら観客からは客観視されてしまうというか、彼の感情の起伏に対していまひとつ説得力が欠けているし、度重なる現在ニックの登場でちょっと彼に対してもミステリアスなムードが生まれてしまっているんですよねぇ。。うーん。


名優揃いにも関わらず
全体的にキャスティングが見事な一方で、芝居で物語を魅せていこうという姿勢が希薄に感じました。後半はどちらかといえば映像効果よりは役者側に寄って行くんですが、それもいまひとつ不十分ですね。特に作品全体を通してとにかくカットが短くてめまぐるしすぎる。メリハリをつけて最初だけかな…と思っていたんですが、後半もそこまで役者をじっくりと見せる撮り方ではなかったように思います。せっかくの好キャストが台無し。あら筋はあるものの、あれではプロットすら観客には伝わらない。(誰と誰がどういう関係でいま何が起きたの…?というのが分かりづらい。)ましてや作品が持つ悲劇性などまったく感じられません。


今さら原作をぺらぺらーっとめくってみると、やっぱり今作とは細部にかなり異なる部分がありますね。なんとなく、「グレート・ギャツビー」を下敷きにした別作…くらいの意識で観た方がいい気させします。


特に思うのは、ギャツビー死後のシーンが大幅にカットされていること。原作では死んで口を閉ざしたギャツビーの世話をニックがしたり、そこへ場違いな電話をかけてくる輩に彼が辟易としていく様子。そして何よりギャツビーの父親が登場して、ギャツビー自身の性格を裏付けるちょっとした小道具を見せるシーンなんかが描かれていますが、映画ではただ「葬式には誰1人こなかった」というあっさり過ぎるくらいの扱いでした。また、映画ではギャツビーの死と同時に退場していくブルジョワ達ですが、原作ではニックが後日彼らにあって会話をするシーンなどが挿入されており、ニックの彼らへの視線というのが上塗りされています。


やはり全体的に、ギャツビーがいかに純粋でひたむきな情熱を燃やした人物だったのか、成金の衣の内側にある本当の彼の姿とはなんだったのか。それを目撃し、たった一人理解したニックの心境はどんなものだったのか。彼らの奇妙な友情と、ニックがギャツビー意外の人間にどうしようもなく感じてしまった軽蔑的な心情、やるせなさ、苦しさ……。そういった、原作を名作たらしめている要素が映画からは殆ど感じられず、ギャツビーその人がただの道化のようにさえ見えてしまうのが残念です。


芝居ではなく演出でガツガツ魅せていく…というのは前半のみにして、後半はじっくりと人間を描く…というやり方でもよかったんじゃないでしょうか。なーんて偉そうなこと言えるような立場でもありませんがね。ま、これを機に、より一層ペシミスティックそうな村上訳で原作を読み返してみようかな。


とまぁ、ある意味いさぎよい映画化でしたが、是非とも違ったアプローチの映像化も観てみたいですね。(テレビ映画版もあるんだっけか?)


もちろん「だがそれがいい!!」という読み方もあると思います。


未見の方は、時代の目撃者となるべく是非とも劇場で鑑賞することをお勧めします。


ちゃんちゃん。


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

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グレート・ギャツビー

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華麗なるギャツビー [DVD]

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『グレート・ギャツビー』の読み方

『グレート・ギャツビー』の読み方

【惡の華 〜ハナガサイタヨ会 番外編〜】に行ってきた。

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キャプチャ怒られませんように…



今日(昨日)は久しぶりに?惡の華」イベントに行ってきました!!


別冊少年マガジンで連載中の「惡の華」。原作大ファンのわたくしですが、現在放映中のアニメもひっじょ〜〜〜〜〜にGOODで毎週楽しみにしています。そんなわけで珍しくアニメのイベントに足しげく通ったりしております(笑)


前回のレビューはこちら↓↓↓
【惡の華 〜ハナガサイタヨ会】に行ってきた。


6月2日に行われた「ハナガサイタヨ会 vol.2」には残念ながら行けなかったのですが、本日の番外編はバッチリ参加してきましたよ!!



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場所はKDX東新宿ビル3Fの貸オフィスのようなスペースでした。


今回は5月22日に発売したドラマCD「惡の蕾」を予約・購入した人が先着で参加できる何ともスペシャルなイベントでした。会場の席数はざっと数えて130席くらい。参加者はなかなか濃ゆいメンツなのではないでしょうか(笑)



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これは一体…?


開場30分前の13時から整理券配布がありました。僕が到着したのは12時40分頃でしたが、既に階段に30人ほどの行列が。そして整理券と共にアンケートが!!そこには「あなたの中二病エピソードを教えてください」の文字(笑)。ドラマCDを聴いた方は知っていると思いますが、最後のトラックに入っているキャスト一同の「中二病座談会」はかなりのカオスっぷりでしたからね……。イベントで晒されるのでしょうか。入場時に回収するとのことで、皆さん行列に並びながら一生懸命書かれていました。さすがクソムシの集まりですww



ゲスト3名がご登場
今回は長濱監督、植田慎一郎さん、伊瀬茉莉也さまの3名でミニマムなトークショーという感じでした。前回より近くで観ることができて感激です。植田さんは惡の華Tシャツを、伊瀬茉莉也さは太いストライプの涼しげなワンピース姿でとってもキュートでした。


10話はすごかった
現在すべての局でオンエアが終了しているのは10話までということで、それ以降の回については触れないようにトークが進んでいきました。しかも今現在12話の作業をしているということで、本当にいつも納品がギリギリのようです…。連作ものってやっぱりライヴ感あるんですねぇ…。


ちなみに最近のアニメの動画枚数の平均が1話につき4000〜6000枚程なのに対して「惡の華」は平均9000枚!!10000枚を超えることもざらだとか。とんでもない作業量ですね…。すげぇ作品です…。。


10話は漫画でもひとつの区切りになるクライマックス回。キャストの皆さんもひとしおの思い入れがあるようです。10話はBGMなしで台詞と環境音のみの回だったのですが、実は一カ所だけ音がついていたようです(佐伯さんが文房具やさんに行ってきますと嘘をつくシーン)。植田さんはそこの音楽の緊張感の素晴らしさに大興奮だったらしいのですが、結局音楽なしでGOということになったとのこと。植田さんの話しぶりからは完成物についてかなりのこだわりが感じられました。


特に山道での三人のシーンは全員相当役に入り込んでいたらしく、大号泣の殺伐とした現場だったとのこと。春日が叫びながらへたりこみ、独白をするシーンでは実際にその動作つきで演じたようです。今回はアニメには珍しくガンマイクでのアフレコをしているので可能になった録り方だとか。伊瀬さんはOKでた瞬間に、春日に裏切られたことを思って泣きじゃくったらしいです。あのシーンは何度観ても三人のお芝居が素晴らしく、原作ファンとしても文句無しの感動なのではないでしょうか。実写撮影時も三人の涙は本物。佐々木さんの表情がもう…あの顔、仲村ですよ…。本当に難しいと思うんだけどなぁ。役者さんってすごいです……。ものすごいエネルギーが詰まった作品ですね…。


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日笠&三品さん…。最高です。。


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植田さんも迫真…!


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そして仲村(伊瀬&佐々木さん)…。素晴らしすぎる…。



3人で1から惡の華という塔を造り上げていく
長濱監督は、伊瀬さんや日笠さん(佐伯役)に対してプロ声優としてのキャリアを一切忘れて、「惡の華」に臨んで欲しいと要求したそうです。これに対して演技初挑戦の植田さんは何も経験がない状態。そこから3人で惡の華というひとつの塔を造り上げていって欲しいと。植田さんはかなりのプレッシャーがあったようですが、(伊瀬さん、日笠さん二人と比べて)自分は実写で一度演じているというアドバンテージを拠り所にして、なんとかしがみついてきたということでした。初芝居にも関わらずかなりいろんなことをやらされてますが、ブルマを履いた感想は一言、「動きやすい!」とのことでした(笑)


引きずられながらも…
植田さんとしてはとにかく「伊瀬さんと日笠さん、佐々木さん三品さんに引きずりまわされて」演じてきた…という感想のようですが(引っ張ってもらったのではなく引きずりまわされた…という言葉のチョイスが象徴的ですね笑)、長濱監督からは「引きずりまわされながらも、植田が引きずった瞬間があった」とナイスな台詞が!!なんかこれに今日いちばん感動してしまいました…(^_^;)


植田くんに寄り添って
逆に伊瀬さんの方は、今までのキャリアを全て壊して全く新しいものをつくる…ということで相当な苦労があったとのこと。監督からも「アニメの芝居はいらない。仲村になってほしい」と言われ、一年くらいかけて役作りをしていったそうです。最終的にはセリフをタテるのではなく、植田さんに寄り添うようなかたちで素っぽい喋り方に落ち着いていったらしい(うろ覚え)。特に実写パートの撮影を見学した際は佐々木さんの演技に引っ張られそうになってしまいそうになり、かといってロトスコでどのような画があがてくるのかも分からず、混乱があったようです。


ドラマCDについて
山田/小島編がひどい!という監督。伊瀬さんも中学生男子ってあんなことばかり喋ってるんですか?と。長濱監督は本当に男の会話はあんなもん!とか言ってて、僕はCDを聴いたのが二週間前くらいで内容が全然ぱっとでてこなかったんですが、、あれですね、オナニーの話でしたね!内容が男としては普通過ぎて忘れてました(笑)。やっぱあんなもんですよね〜。


中二病エピソード
イベント終盤はアンケートをとった内容を紹介してました。長濱監督の中二病エピソードはなんと「自作の手裏剣を作っていた!」という話。今日一番笑った気がします。実家が鉄鋼業だから本格的に鉄を加工して凶器の制作をしてたとか…。自分が凡庸ではない特別な何かだったらいいなぁという思い(宇宙人、忍者の末裔etc…)…これが中二病の正体のひとつなのでは?という分析をされていました。アンケートの結果発表はどうやら公序良俗にそこまで反しないかわいいものがピックアップされていたのかな…。あんまりやばいのは選ばれなかったようです。僕も一生懸命書きましたが、あれがスタッフの方とかに見られてると思うとほんと恥ずかしいですね…。。。


押見先生のビデオメッセージ
押見先生は今回ビデオメッセージでのご参加でした。印象に残ったのは、ドラマCD仲村編の「ハエを殺せんのかよ」→春日に向かって「ウンチバエ」…と言う台詞。これは原作中学生編のラストに通じていく言葉でもあるんじゃないかな…という示唆的なことをおっしゃっていました(ハエ=春日を殺せるのか?)。やっぱりこういうこと、きちんと考えてらっしゃるんですねぇ。。大尊敬です。


そして、何故か話題は先生のオナニーエピソードになり…。ここんところが異様に長くてビデオがはしょられてたんですが、普通に赤裸裸に先生がオナニー歴を語られていて会場は大爆笑。先生のオナニーキャリアはかなりの長さですよ…(笑)最後に先生がすべてをもっていってしまいました……ww
あ、あと、押見先生の中二病エピソードはボブ・ディランの映画に触発されて、おじいさん用の杖と山高帽(ステッキとシルクハットらしいですw)をして学校に通っていたことでした(笑)。ほんとわけわかんねぇなーこの人ww


次回Vol.3は6月30日
なかなかハイペースでイベントが組まれていますね。次回は会場でアフレコ風景を再現していただけるそうですよ!!伊瀬さんは今作については、とにかく作品についていろん人と語りたい…とをおっしゃっていました。それから13話はかなりびっくりな最終回?になっているようです。ペース的にやっぱり原作の中学生編の終了まではいけなそうなので、何らかのアニメオリジナルな展開になるとは思うんですが、どうなるんでしょうかねぇ〜。楽しみです!!


最後はハイタッチ
最後はゲストの三人とハイタッチをしてお土産のポスターをもらうことができました。普段、こんなに近くで直接キャストや監督に思いを伝える機会は少ないのですっごく嬉しかったですね。植田さんには「10話感動しました!」、伊瀬さんには「応援してます!」、長濱監督には「こんなに素敵なアニメにしてもらってありがとうございます!!」と一言ずつ言えてもう本当に感無量でした。とにかく自分の口から出てくるのが「ありがとうございます」という感謝の言葉であることが何故か自分で感動。。こんなに素晴らしい作品に巡り会えたことがほんと神に感謝レベルですわ…。。



前回に引き続きとっても楽しいイベントでした。原作もアニメも今後の展開が見逃せません。次はOPテーマのCD発売が待ち遠しいなぁ〜。(もちろん宇宙人さんの方はすでに買いました!)


ちゃんちゃん。


惡の華 ドラマCD 悪の蕾

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アニメ「惡の華」コンセプトE.P.「惡の花譜」

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惡の華 (8) (講談社コミックス)

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