隣の世界の覗き窓

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雲のむこう、約束の場所(2004)〜その3〜

前回のエントリはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その2〜



雲のむこう、約束の場所 新海監督オリジナル予告編(120秒) - YouTube


意外と長くなってしまった今作のレビュー。。。
思考をまとめるって難しいですね…。

前回のエントリでは今作の前提的な特徴として以下の点を挙げました。


・物理的な距離…というより精神と現実のギャップ
セカイ系の引用
セカイ系王道展開からのズレ
・配置転換されている結末
・“喪失”への言及


一見してセカイ系の文法で構築されていますが、そのような見方で鑑賞すると肩すかしを食らってしまうのが今作。また、結末が配置転換せれていることにより、観賞後に奇妙な居心地の悪さが残ります。SFを絡めた単純なラブストーリーというわけでもありません。作品全体を見渡してみるとしつこいくらいに散りばめられた“喪失”というモチーフに気がつきます。


これらを踏まえて「雲のむこう、約束の場所」で何が語られているかを考えてみようと思います。



“約束”とは何か
今作を支えているキーワードの1つが“約束”です。中学二年(三年)のヒロキ、タクヤ、サユリの3人は自主制作の飛行機(!)ベラシーラに乗って、津軽海峡を超え、国境の向こうにそびえるユニオンの塔へ向かうことを約束します。これはそのままタイトルになるくらい重要な舞台装置です。「雲のむこう」にある「約束の場所」へ行くことがヒロキ、タクヤ、サユリにとっての至上命題。それ意外に彼らに真実はありません。ところがサユリの突然の退場によってこの約束は果たされないまま3年が経過してしまいます。


また、大人になったヒロキにとってその約束は過去のものになっています。10代の頃に輝いていたはずの“約束”は、成人したヒロキの中で同じ光を放ってはいないようです。

「今はもう遠いあの日。あの雲のむこうには、彼女との約束の場所があった。」(ヒロキのモノローグ)
=今はもうない(失われてしまった)。
→物理的な消失:ユニオンの塔の破壊
→象徴的な消失:“彼女との約束”は今ではもう約束としての効果(二人を繋ぎ止める力)をもたない。



果たされぬ“約束”と止まったままの時間
理不尽にも果たされないままとなってしまった三人の“約束”。ベラシーラの制作はフェイドアウトし、計画は完全に頓挫。ヒロキはサユリの思い出や“約束”から逃れるために東京へ。タクヤは違った形でユニオンの塔への思いを遂げるために青森に残り研究施設へ。そしてサユリは永遠の眠りにつき、夢の世界に閉じ込められながら、ヒロキを求め続けます。


ここで重要なのは“約束”が果たされないまま、ヒロキとサユリの時間は凍結しているということです。ヒロキはユニオンの塔が見えないからと東京に進学しますが、天気のいい日には「東京からもぼんやりと」塔は見えます。これは土地を離れても“約束”のことを忘れられないヒロキの心情のメタファーですね。「まるで、深く冷たい水の中で息をとめ続けているような、そんな毎日だった」のがヒロキの3年間です。


一方、サユリはとめどなく流入してくる並行世界をたった一人の夢の中で受け止め、孤独に眠り続けます。

「僕だけが、私だけが、世界に独りきり取り残されているような、そんな気がする。」


“約束”を果たさないまま、二人は成長することができません。二人の時間は中学生の時点のままストップしており、精神の奥深く(夢の世界)でお互いを激しく求めあっています。


喪失だけを先行して引き受けたタクヤ
他方、青森に残り、ユニオンの塔の研究をしているタクヤの時間はきちんと流れています。ヒロキとサユリという二人の友人の喪失を抱えながら、かつての“約束”に別の手段で近づこうとします。タクヤは中学時代、後輩からの告白をあっさり断ったりしているあたり、自分の欲求の外部のことを切り離して生きていく術を持っているようです。喪失に蓋をしながら“約束”(の代替)を達成するまで進み続けるタクヤは、ヒロキやサユリとは対称的ですが、ある意味では中学生当時の“約束”をそのまま高校生になっても継続的に胸に抱えていると言えます。


通過儀礼としての“約束”
さて、ここまでヒロキ、タクヤ、サユリが囚われている“約束”とは何なのでしょうか。僕のイメージでは、それは青春時代に訪れる輝かしい高揚感や“憧れ” “夢” “目標” のようなものの象徴だと僕は思います。彼ら三人の“約束”は非常に個人的かつ閉鎖的なものです。それは社会や世間とは関係なく、彼ら自身が価値のあると考えていること。彼らにとってだけ意味のあること。彼らにとってはそれだけが真実であると言っても過言ではない、思春期の彼らの世界そのものです。

「憧れの一つは同級生の沢渡佐由理で、そしてもう一つは津軽海峡を挟んだ国境のむこうにそびえる、あの巨大な塔。いつだって僕はあの塔を見上げていた。僕にとってとても大切なものがあの場所には末弟気がした。とにかく、気持ちが焦がれた。」(ヒロキ)


“約束”とは、簡単に言い換えれば津軽海峡を自力で横断すること。これは子どもである彼らにとってギリギリ手の届くか届かないかくらいの目的です(現実的には国境越えは無茶な気がしますが、そこはアニメ補正があるということで…)。青森という本州北端から、ユニオン領の蝦夷という異世界への訪問。彼らにとって最も身近で手を伸ばせば届きそうな憧れ、冒険。10代の若者が余りあるエネルギーをかけて打ち込む挑戦。これは多くの人間がスケールの差こそあれティーンエイジャーの頃に経験する、精神的な、あるいは肉体的な衝動の発露のようなものではないでしょうか。それはある人にとってはスポーツの大会であり、またある人にとっては吹奏楽の演奏会かもしれません。あるいは難関校の受験であったり、学園祭の成功かもしません。こうした若者ならではの精神の高揚…(と言えばいいのか、うまい言葉が見つからないんですが)のようなものをヒロキ、タクヤ、サユリの三人は“約束”によって高めていました。


もちろんこうした精神的充足をたっぷりとは味わわずに成長していく人もたくさんいるでしょう。しかし、ある種の人々はこうした体験を不可避に、また自ら望むようにして引き寄せ、飲み込まれて行きます。ところがそれはまた多くの人にって一時的なものです。“約束”に向かっているうちは素晴らしい充足感によって満たされていく一方ですが、その“約束”は果たされることによって、残酷にも収束へ向かうのです。


高揚のあとにやってくる“喪失”
三年の月日を経て、三人の人生はもう一度青森で交わり、“約束”を果たすことになります。ヒロキはサユリをベラシーラに乗せてユニオンの塔へとたどり着きます。そこでサユリは覚醒し、現実の世界へ帰ってきます。二人は“約束”を達成すると同時に再会し、そして三年間沈黙していたお互いの人生を再開させるのです。


こうしたストーリーの展開からは、非常に分かりやすいメッセイージを汲み取ることができると思います。上記のような精神的高揚を通過儀礼として味わわないまま、大人になることはできない。そうした経験を避けたまま人は前に進んで行くことはできない。青春時代に残してきた“約束”を凍結したまま、逃避したままで成長していくことはできない。人は成長の過程で、そうした“約束”に何らかの決着をつけなければならない…というある種の強迫的なテーゼを感じますね。


新海誠作品で特徴的なのは、そうしたテーゼにもう一歩、“喪失”体験が加わることです。これは『秒速5センチメートル』で顕著でしたが、青春時代の一時的な精神の高揚の先にはかならず“喪失”があることを、彼はこだわりを持って提示してきます。今作で言えば、ヒロキとサユリは“約束”を果たすことで再会と再開をすることができましたが、その後はお互いを失うことになった…という間接的なプロット(作品冒頭のヒロキのモノローグ)でそれを表現しています。


新海誠作品ではあくまでそうした高揚と“喪失”は通過儀礼としてセットで語られます。今作でもそれは例外ではなく、“約束”の達成と(どうやら)結ばれなかった(らしい)ヒロキとサユリの運命によって表現されているのです。


………



…と、ここまでしつこく“喪失”について書いてきましたが、さらに今作では“夢”という舞台装置を使ってもう少しドラマチックに、象徴的に、“喪失”について語れています。


中途半端ですが、またまた長くなってきたので、この辺で次回へ。


いつになったら終わるのやら…。。


続きはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その4〜


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