隣の世界の覗き窓

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マイク・ミルズのうつの話(2013 ※日本公開)

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監督:マイク・ミルズ 
製作:カラム・グリーン、マイク・ミルズ、保田卓夫
撮影:ジェームズ・フローナ
【作品概要】「サムサッカー」「人生はビギナーズ」のマイク・ミルズ監督がうつ患者の日常を映しだし、その姿を通して現代社会が抱える問題を描き出すドキュメンタリー。日本では15人に1人がかかっていると言われ、特に2000年代に入ってから社会的にも大きく広まっていったうつ病。製薬会社によって行われた「心の風邪をひいていませんか?」という広告キャンペーンがうつ病の存在を広く知らしめたと考えたマイク・ミルズ監督は、それを検証すべく、急速にうつが常識化した日本を舞台にカメラをまわしはじめる。日本人うつ患者の日常を優しく明るい視線でとらえ、うつという現代病に対する対処法や社会の問題点を考察する。(映画.com)


心の風邪”の患者達。
マイク・ミルズが見たゼロ年代のTOKYO −

 「マイク・ミルズのうつの話」は2013年10月に渋谷アップリンクで公開された長編ドキュメンタリーである(2013年12月現在公開中)。東京に住む5人のうつ病患者の日常を追ったポートレート作品だ。マイク・ミルズ監督は日本ではもっぱら「人生はビギナーズ(2010)」「サムサッカー(2005)」という長編映画でお馴染み。両作品とも、心のバランスを崩した主人公が苦悩しながらも周囲の人間と折り合いをつけて暮らしていくハートフルストーリーだ。率直で繊細な描写ゆえに、鑑賞者は主人公達と共に痛々しく傷つけられるが、やがて再生へと結実するプロットに安堵を覚える。

 
 心のバランスを崩した者たち…という主題において「マイク・ミルズのうつの話」も上記二作と相通じる系譜にある。しかしながらドキュメンタリーたる今作においては、物語映画のようにうつ病患者たちを救済に導くプロットはもちろん不在である。公募によって選出された5人の出演者は、東京の片隅で淡々と日常を暮らしていく。彼らは果たして再生へ向かっているのか、あるいは絶望の泥沼に少しずつ引き寄せられているのか…。カメラにも、観客たる我々にも、そして誰より出演者自身にもそれは分からない。

 
 作中ではナレーションや解説の類いは一切排除され、ミルズ監督の質問とそれに答える出演者、最低限のテロップによって構成される。その中で唯一、恣意的に提示されるのが日本の抗鬱薬に関する情報だ。そもそも原題である“ Does your soul have a cold? ”(あなたの心は風邪をひいていますか?)自体、アメリカの製薬会社が行ったうつ病の認知度アップキャンペーン(1999年)のコピーそのものである。今作の出演者もほとんどがこのキャンペーンCMを知っており、治療を開始するきっかけになったと答えている。そしてもちろん彼らは製薬会社がスポンサーであることは知らない。

 
 実際に、うつ病で医療機関を受信する患者の数は1999年の44万人から2008年の104万人へと倍増している。日本で急激に増加する“うつ”という現象に、ミルズ監督は製薬会社のマーケット戦略という小石を投じることで、画面と観客のあいだに静かな波紋を起こそうというわけである。

 
 作中では5人の出演者が抗鬱薬を服用する様子と共に「PAXIL 35MG」「DEPAS 10MG」といった、薬の種類と量に関するテロップが表示される。出演者のミカは「うつ病ではなく抗鬱薬との戦い」とコメントし、断薬時の激しい離脱症状に苦しむ姿も映される。比較的治療歴の浅いカヨコは「効果は分からないが安心するために薬を飲む」とも言う。彼女の話を聞くカウンセラーの応対はいかにも無力そうに響く。エンジニアのダイスケは医者からカウンセリングの提案すら受けなかったという。投薬治療頼りの日本の精神医療の現状が浮き彫りになる。

 
 果たして日本のうつ病患者急増は欧米の製薬会社の陰謀によってもたらされたのだろうか。うつ病“予備軍”を巧みに医療機関へ誘導し、薬漬けにすることで治療を先延ばしにしているのだろうか。もちろんそのような攻撃的/批判的な帰着もあり得るかもしれない。しかし今作の監督はマイケル・ムーアではなく、マイク・ミルズだ。彼は「サムサッカー」や「人生はビギナーズ」で見せた被写体への繊細なまなざしを、より注意深く5人の患者達に向けていく。彼らの息づかいが聞こえるほど、徹底的に寄り添っていくことで、当初に自身が投げかけた問いが次第に空転していくことに気づくのだ。

 
 うつ病歴15年のタケトシを始め、出演者は皆、自分自身をコントロールする手段を模索している。彼は「自分自身が主治医」と言い、毎日の気分の変化を細かくノートに記録している。うつに関する本は自宅に数十冊。自助グループにも積極的に参加し、ジムでの運動も欠かさない(彼は体格も良く、ハンサムな出で立ちで一見してうつ病とはわからない)。最も印象的なのはバイセクシャルのケンだ。普段からホットパンツに生足ハイヒールという風変わりな出で立ちの彼は、縄で縛られることによって心が満たされると言い、緊縛教室に通う。縄師の女性も「彼の精神を自由にするために奉仕している」らしい。

 
 また、彼らは病気や薬との関係に苦しみながらも、自身がいかにしてうつ病になったか、何故抜け出せないのかということに懸命かつ冷静に向き合っている。カヨコは幼少時に受けた両親からの暴力を、ミカは映画「es」から受けた精神的ダメージを、ケンは他人に嫌われないように自己を抑圧してしまうパーソナリティについて自己分析している。彼らは自分たちの苦しみに“うつ”という解を与えてくれた、製薬会社のCMについて感謝さえしており、概ね好意的に捉えている。

 
 出演者たちが暮らすのは、人里離れたサナトリウムや真っ白な大学病院の中ではなく、東京の街の片隅だ。マイク・ミルズの目を通した渋谷の街並は灰色で息苦しく、日本人の生活は狭小的である。うつ病とは何なのか、薬は悪なのか?…こうした疑問に答えはないが、ありのまま切り取られた出演者達の映像の前で、当初、恣意的に挿入された抗鬱薬のテロップが虚しく宙づりにされてしまうことは確かだ。薬の服用シーンから始まったものの、最後はミカが絵の具でペインティングする姿で幕を閉じる構成にもそれは象徴的である。

 
 日本に蔓延するうつ病は、確かにここ十数年に渡って急増した「ゼロ年代の病」ともいえる。そして今や生涯で15人に1人が経験するとさえ言われているのが現実だ。次にこのスクリーンの向こうに立つことになるのは、あなたの家族、友人、同僚…あるいはあなた自身かもしれない。今作は、そんな日本の姿に一石を投じるドキュメンタリーだ。マイク・ミルズが起こしたこの静かな波紋は、我々の心にじわりと浸透していくような温もりがある。病への即効性はないかもしれないが、良質なセラピーとなり得る一本だ。


(某媒体掲載を前提に書いた原稿ですが、日の目を浴びなかったため、加筆修正して投稿してみました。)



『マイク・ミルズのうつの話』予告編 - YouTube