隣の世界の覗き窓

映画とか…漫画とか…虚構の世界をレビューするブログです。

ももいろそらを(2013)〜その1〜

ももいろそらを(2013)
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監督・脚本・撮影:小林啓一
プロデューサー:原田
キャスト:池田愛小篠恵奈藤原令子
     高山翼、桃月庵白酒
【作品紹介】本作が長編デビューの新鋭・小林啓一監督が、大金を拾った女子高生と友人が巻き起こすアクシデントを通して、現代に生きる若者の瑞々しい表情を全編モノクロームの映像で描いた青春ドラマ。新聞の採点を日課にしている高校生の川島いずみは、ある日、大金の入った財布を拾う。財布の持ち主を無事に探し当てたいずみだったが、そこから事態は思わぬ方向へ動き始め……。2011年・第24回東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門で作品賞を受賞した。(映画.comより)


去年に引き続き、今年もとっても素晴らしい邦画に出あうことができました…!まぁちゃん的には今年観た映画の中でNo.1の傑作度をマークしております。1月公開でしたが、6月に入っても渋谷アップリンクで再上映が決まり、ロングラン中です。ずーっと気になってたのに行けなくて、僕もやっとこ再上映初日の6月1日に鑑賞、監督とプロデューサーさんのトークまで参加してきました(^^)。
自分にとって特別な作品との出会いって、観る前からなんとなくビビッとくるんですよね。これ絶対自分好きだろうなーっていうのがタイトルとか、予告編とか、たった一枚のチラシやピンナップなんかから分かってしまうんです。こういう一本との邂逅は本当に得難いものです。ほんと、大げさですけど生きててよかったー!っていう気になっちゃいますね(笑)


ももいろだけど白黒…
「ももいろそらを」は全編にわたってモノクロ映像。BGM一切なし!手持ちカメラで屋外撮影がメイン。ドキュメンタリータッチで女子高生の日常を描くというなかなか挑戦的な一本です。長回しが多く、これらの特徴だけ考えるとヌーベルバーグ的な手法が散見されます。低予算でインディペンデントな映画ならではの撮影条件がこれらの共通点を生むわけですが、やはり監督の「何かありきたりでないものをやってやろう」という意識がビンビン伝わってきますね。


唯一無二のJKヒーローいづみ
今作の魅力はなんといっても主人公であるいづみのキャラクターです。終始、粗野な言葉遣いで活き活きと画面に君臨する彼女の姿は、他の映画にはない独特のオリジナリティ…存在感抜群です!とりえあず予告編を観るとその片鱗が観れます…笑




ももいろそらを/About the Pink Sky - Official Trailer2 - YouTube
あれ、意外と少ないかな…。




映画『ももいろそらを』予告編 - YouTube
もいっぽん!



彼女の独特のべらんめぇ口調?は『男はつらいよ』の寅さんが好きでそのマネをしているという設定らしく、近所の冴えない印刷屋の親父にもアニキとか呼ばれてます。いづみはビジュアル的には一見、イマドキの女子高生っぽくも見えますが、実際にどこかにいるリアルな女子高生…というわけではないでしょう。この日本のどこかにいるようでいない…そんな映画的な特別なキャラクターに仕上がっています(そういう意味でどこかヒーロー的なんですよねぇ)。ともすれば突飛でアバンギャルドになってしまいそうな彼女を等身大に画面に定着させているのが見事です。


特に、浅くて曖昧なフォーカスによって不意に浮かび上がるいづみの表情は素晴らしく魅力的!!かわいい…という言い方もできるんですが、なんというか、そういう女のコらしさというよりも、若い高校生としての健康的で瑞々しいエネルギーに満ちているというか。活き活きとしたイノセントな表情に何度もドキッとさせられます。基本的にずーーーっと眉間にしわを寄せ、世界に向かってガン垂れているいづみがイイんですが、病院のシーンで見せるにんまり顔がまたたまりません。この表情の対比は映画史に残ると勝手に思っています…w



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怒りや不快を顔全体でこれでもかと表現します。



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にんまり。


いづみは学校をさぼっては近所をぶらぶら。高校一年生ながらどうやら学校には仲の良さそうな友達はいないようで、いつも学校の違う蓮実と薫(多分中学の時の同級生)とつるんでいます。また彼女は毎日、新聞を読んでは書かれている記事に採点をするという奇妙な習慣を持っています。新聞片手に徘徊する様は(言葉遣いと合わせて)なんともどこか親父くさい(笑)。まさに寅さん的なアウトローな雰囲気を醸し出しています。学生を描いた作品ながら学校のシーンがほとんどないのも特徴的ですね。いづみのフーテン感が際立ちます。(唯一の教室シーンでは机に身体ごとつっぷしてやる気ゼロでした…w)



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JKとおっさんと釣り堀…。奇妙な組み合わせです。


ノーウェアランドのミニマムなドラマ
モノクロ映像で制作されている理由は、今作の設定が、2035年に40歳のいづみが過去を振り返っているから…ということらしいです。また、監督は「今この瞬間も、時間はつぎつぎに過去になっていく…」ということを意識してのことだとか。確かにモノクロ映像は限定的な時代感を切り取るような効果があります。
また、カメラの被写界深度が非常に浅く、フォーカスされた人物がくっきりと画面に浮かび上がる一方で、人物以外の背景はぼやけて主張を弱めています。これらの要素により、物語のスケールが時間的にも空間的にも、主人公達のごくごく周辺で起きているミニマムな範囲に限定されているといえるでしょう。また、街を特徴づけるようなランドマークのような物もなく、ロングショットも少ないため、舞台としての街そのものがあまりはっきりと把握できません(監督曰く:設定は東京の郊外のどこかとのこと)。建物の全景を映すようなシーンもほとんどなく、道ばたを歩いているか屋内か…という両極端。河原のシーンもありますが、川全体を映すようなカットはなくて、あくまで撮っているのは人物ですね。日本のどこかにいる普通の高校生たちの、日常の範囲で起こるドラマとしてスケールを抑制して物語が語られています。(全編通して不自然なほど大人が排除されている点も象徴的です)




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低い被写界深度。


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ピントから外れるとすぐに手前も奥もぼけちゃいますね。



以上のような感じで、まずいづみというキャラクター、そして制作のスタイルによってかなりオリジナルな土台が固まっている(厳密に言うと危うさを孕んだ土台なわけですが)作品です。これだけでも個人的にはツボ……と言いますか。面白いことするなぁ〜とワクワクしていしまいますね(笑)


さてさて……、こうした舞台設定の上で、物語がどのように動かされ何が語られているのか。


次回のエントリに続きます〜。


続きはこちら↓↓↓
ももいろそらを(2013)〜その2〜

ももいろそらを(2013)〜その3〜

雲のむこう、約束の場所(2004)〜その4〜

前回のエントリはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その3〜




雲のむこう、約束の場所 新海監督オリジナル予告編(120秒) - YouTube



長かったこのシリーズも今回で終わりです(笑)
いやー、長い。。もはや何がなんだかわかりませんね。。
でもま、書き始めたものは何とか不完全でも書ききりたいと思います。。


通過儀礼としての“喪失”
前回のエントリでは、主人公たちが3年間にわたって沈黙していた人生を、“約束”を果たすことによって再開させたこと。そして新海誠作品では、“約束”を果たしたあとの“喪失”までがセットであることを書きました。


最後のエントリでは、この“喪失”の表現として“夢”からの目覚め…という舞台装置を利用していることに注目したいと思います。


“夢”から覚めることで失う気持ち
今作のストーリーの帰結は主人公たち三人がかつての“約束”を果たすことにありますが、それは同時にサユリが「夢から覚める」ことでもあります。並行世界の流入をたった一人で食い止めているサユリをその苦しみから解放することが、物語中盤から主人公ヒロキの目的として追加されるのです。それまでは“約束”を三人で達成することがヒロキの目的でしたが、一旦はそれが失われ、後になってサユリを目覚めさせることがかつての“約束”と共に目的として一致します。今作は眠り姫のように「サユリが夢から覚める」物語であるとも言えるのです。


また、“夢”は今作で特殊な意味合いを持ちます。研究所で働いているタクヤの先輩にあたるマキ。彼女は並行宇宙の研究を睡眠や記憶、夢といった方向からアプローチしており、並行宇宙のことを以下のように説明しています。

・人が夜、夢をみるようにこの宇宙も夢をみている
・「こうであったかもしれない」という様々な可能性をこの世界は夢の中に隠している
・そのことを並行世界・分岐宇宙と呼んでいる
・並行世界は人の脳や夢にも影響を及ぼしている
・生物の脳は無意識のうちに並行世界を感知している
・分岐宇宙が人の予感や予知といったものの源泉の可能性がある


さらに、サユリは「ずっと何かを失うようながしていた」「いつも何かを失う予感がある」「いつも予感があるの、何かをなくす予感」といった台詞を作中で繰り返します。彼女は何度もベラシーラがユニオンの塔に向かって空を飛ぶ夢をみており、その夢の中でサユリ本人は高校生の姿になっています。また、中学3年の夏にヒロキとタクヤの飛行機作りを観に来ていたサユリは、廃駅で一瞬意識を失い、白昼夢をみます。それは遠くに見えるユニオンの塔が爆発するものでした。(そのすぐ後にサユリの病気は発症し、永遠の眠りにつくことになります。)以上の描写からサユリには並行世界を感知する何らかの素質があり(ユニオンの塔を造ったとされるのがサユリの祖父であることと無関係ではないでしょう)、予知夢をみていることが明らかです。そして彼女は“喪失”への予感を敏感に感じとり、現実世界ではヒロキとタクヤとの“約束”を楽しみに待ちつつも、“夢”の世界では来たるべき“喪失”に不安を覚えているのです。


サユリが何を失うのか…というのは物語のクライマックスで明らかになります。ヒロキがサユリをユニオンの塔に連れて行き、いよいよサユリが目覚めるというシーンです。

「ああ…そうか。私がこれから何を失くすのか…分かった。」

「神様、どうか、お願い。目覚めてから一瞬だけでもいいの。今の気持ちを消さないでください。ヒロキくんに私は伝えなきゃ。私たちの夢での心の繋がりが、どんなに特別なものだったか。誰もいない世界で、私がどんなにヒロキくんを求めていて、ヒロキくんがどんなに私を求めていたか。」

「お願い。私がこれまでどれだけヒロキくんのことを好きだったか。それだけを伝えることができれば、私は他には何もいりません。どうか、一瞬だけでも。この気持ちを…」


今作でいちばん泣けちゃうシーンですね(笑)。特に二人の声が重なって、ヒロキが神様どうかサユリを目覚めさせてください…と言う台詞と、サユリがどうかこの気持ちを忘れさせないでください…と言う台詞が交差するところ。いい演出です。夢から覚めることで、サユリは自分の精神の深いところにあるヒロキへの純粋な気持ちを忘れてしまいます。夢の世界のことは、現実の世界へは持ち帰ることができなかったのです。


さらに…

「フジサワくん…。わたし、何かあなたに言わなくちゃ、とても大切な……。消えちゃった…。」

「大丈夫だよ。目が覚めたんだから。これから全部…また。おかえり…サユリ。」


ぜんぜん大丈夫じゃありません。目が覚めて、サユリの気持ちは失われてしまったのですよ、ヒロキくん…。乙。。
サユリがヒロキのことを“夢”の世界では「ヒロキくん」と呼んでいたのに対して、目覚めたときの第一声が「フジサワくん…」だったのが象徴的ですね。3年間み続けていた彼女の“夢”と記憶は、覚醒とともに失われてしまったのです。そして恐らくユニオンの塔の建造に呼応してサユリがみていた夢や予知の力は、この先弱まってしまうことでしょう。


精神世界と現実
今作では物語が進むにつれて、徐々に“夢”の世界が現実の世界のプロットを浸蝕していきます。サユリとヒロキは夢を通じてお互いを強く求めあい、ヒロキに関してはその想いを覚醒後もある程度覚えているようです。ヒロキは“夢”で予感を感じ、サユリの病室へと足を運びます。そこでサユリの思念のようなものと呼応し、さながら白昼夢をみるように、サユリの想いを感じとるのです。そして“夢”で約束したから!とか無茶苦茶言って青森までノコノコと帰り、タクヤを説得しにかかるわけですが、そりゃケンカになるのも当然でしょう(笑)。


重要なのは、“夢”の世界が純粋にただの夢として描写されているのではなく、彼らの“夢”がさながら現実の一部として作用しているということです。今作において“夢”の世界とは並行世界に繋がるものであり、それはこの世界の「こうであったかもしれない」という可能性を様々に内包しながら広がっています。並行世界がユニオンの塔を介して現実を侵蝕してくるのと同じように、プロット上でもサユリを介して“夢”の世界が現実へと流入していきます。


こうした手法は村上春樹の小説でよくみられます。彼の作品ではしばしば、夢の世界、精神的・観念的・象徴的な世界が大きく物語に影響しています。リアリズム的なスタイルをとりながらシュールリアリスティックな語りをするのが彼の作品の特徴です。(彼いわく「ノルウェイの森」だけが100%のリアリズム小説)「雲のむこう、約束の場所」でもちらりと村上春樹の書籍が出てくるのは示唆的です。“喪失”というテーマから考えてもかなり意図的に彼の名前を挿入したことと思います。


失われる想い
さて、長くなりましたが、そろそろまとめに入っていきます。今作最大のテーマはズバリ「想いは失われるもの」であることだと僕は思います。いかに精神的な世界で強い想いを持っていたとしても、それはいつかは失われてしまうということです。精神世界や心の奥の部分で持っている強い気持ちが、現実世界へきちんと発露するとは限りません。恐らくユニオンの塔でサユリが目覚めた後も、ヒロキのことを好きだという気持ちは潜在的に彼女の中に残っていたままでしょう。しかし、その後、ヒロキとサユリはうまく結ばれなかったというのがこの物語の事実です。(サユリのおっとりとして内気そうな性格ではいまひとつ恋愛感情がうまく表現されなそうですよね…^^;)“夢”から覚めるようにして、人はあっさりと、抵抗も虚しく、大切だった想いを忘れていってしまうし、どんなに強い想いも、精神から現実に解き放つのはそう簡単なことではないのです。


果たされることで同時に失われる“約束”
そして残酷なテーマがもう一つ、それは“「約束”もまた果たされることで失われる」ということです。前回のエントリで触れた、人間の成長過程で通過する、青春時代特有の高揚感。そうしたピュアな情動は不可避に人間に訪れ、去った後には喪失をもたらします。今作でヒロキ、タクヤ、サユリを繋ぎとめていた“約束”は確かに果たされました。しかしながら、それは同時に三人の精神的支柱だったものが消滅することも意味します。三人を強く結びつけていた“約束”が達成された後、果たして彼らは以前と同じような繋がりを維持することができたのでしょうか。(つまり、それはできなかった…ということですね。)


夢や目標は追いかけている時がいちばん精神的に充足されているのかもしれません。いっそ夢なら覚めないでほしい。しかしヒロキの「あの頃は、一生このまま、この場所、この時間が続く気がした」「あの瞬間、僕たちには恐れるものなんて何もなかったように思う」という思いとは裏腹に、夢は覚めるし、そうした時間は過ぎ去り、いつか失われてしまうのです。



けっこうよくできてるんじゃないのか
そんなわけで長々と4回にもわたって書いてきましたが、そんでもはや誰が読むのって感じですが、、今作も非常に新海誠監督らしい作品でした。輝かしい時間もいつかは終わりがくる。それは夢から覚めるように避けがたいことだ。しかしそうした青春を逃避したまま大人になることもできない。誰もが高揚と喪失を経験して成長していく。残酷さを含めて描くことで、きれいな部分、理想的な部分だけ描いたものではなく、真に健康的な物語にしたい…。ということでしょうか。


自分や大切な人を損なわないためには“約束”を果たさねばならないし、“約束”を果たすことは“喪失”に踏み込むことでもある。そんなジレンマが切ない作品です。


何よりも最後のヒロキの台詞が全てを表現していると思います。

「約束の場所をなくした世界で、それでも、僕たちは生きはじめる」

いやー、何度も言うけど残酷ですな。新海さん…。


ところで今作は小説版も出ているんですが、どうやらそちらの方では映画で語られなかったエピソードがきちんと補完されているようです。特にヒロキとサユリのその後が非常に興味深い。(読んでないけど)


それから全然触れませんでしたが、今作は音楽の使い方もとてもよかったです。特にヒロキが東京で孤独にしているシークエンスはよかったですね。引き裂かれそうなヒロキの心情がとても伝わってきました。


新作の『言の葉の庭』も公開になっていますね。(夏だと思い込んでました…)


ぐだぐだになってしまいましたが、また他の作品についても書きたいと思います。


ちゃんちゃん。



『言の葉の庭』 予告篇 "The Garden of Words" Trailer - YouTube


雲のむこう、約束の場所

雲のむこう、約束の場所


雲のむこう、約束の場所 [DVD]

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雲のむこう、約束の場所(2004)〜その3〜

前回のエントリはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その2〜



雲のむこう、約束の場所 新海監督オリジナル予告編(120秒) - YouTube


意外と長くなってしまった今作のレビュー。。。
思考をまとめるって難しいですね…。

前回のエントリでは今作の前提的な特徴として以下の点を挙げました。


・物理的な距離…というより精神と現実のギャップ
セカイ系の引用
セカイ系王道展開からのズレ
・配置転換されている結末
・“喪失”への言及


一見してセカイ系の文法で構築されていますが、そのような見方で鑑賞すると肩すかしを食らってしまうのが今作。また、結末が配置転換せれていることにより、観賞後に奇妙な居心地の悪さが残ります。SFを絡めた単純なラブストーリーというわけでもありません。作品全体を見渡してみるとしつこいくらいに散りばめられた“喪失”というモチーフに気がつきます。


これらを踏まえて「雲のむこう、約束の場所」で何が語られているかを考えてみようと思います。



“約束”とは何か
今作を支えているキーワードの1つが“約束”です。中学二年(三年)のヒロキ、タクヤ、サユリの3人は自主制作の飛行機(!)ベラシーラに乗って、津軽海峡を超え、国境の向こうにそびえるユニオンの塔へ向かうことを約束します。これはそのままタイトルになるくらい重要な舞台装置です。「雲のむこう」にある「約束の場所」へ行くことがヒロキ、タクヤ、サユリにとっての至上命題。それ意外に彼らに真実はありません。ところがサユリの突然の退場によってこの約束は果たされないまま3年が経過してしまいます。


また、大人になったヒロキにとってその約束は過去のものになっています。10代の頃に輝いていたはずの“約束”は、成人したヒロキの中で同じ光を放ってはいないようです。

「今はもう遠いあの日。あの雲のむこうには、彼女との約束の場所があった。」(ヒロキのモノローグ)
=今はもうない(失われてしまった)。
→物理的な消失:ユニオンの塔の破壊
→象徴的な消失:“彼女との約束”は今ではもう約束としての効果(二人を繋ぎ止める力)をもたない。



果たされぬ“約束”と止まったままの時間
理不尽にも果たされないままとなってしまった三人の“約束”。ベラシーラの制作はフェイドアウトし、計画は完全に頓挫。ヒロキはサユリの思い出や“約束”から逃れるために東京へ。タクヤは違った形でユニオンの塔への思いを遂げるために青森に残り研究施設へ。そしてサユリは永遠の眠りにつき、夢の世界に閉じ込められながら、ヒロキを求め続けます。


ここで重要なのは“約束”が果たされないまま、ヒロキとサユリの時間は凍結しているということです。ヒロキはユニオンの塔が見えないからと東京に進学しますが、天気のいい日には「東京からもぼんやりと」塔は見えます。これは土地を離れても“約束”のことを忘れられないヒロキの心情のメタファーですね。「まるで、深く冷たい水の中で息をとめ続けているような、そんな毎日だった」のがヒロキの3年間です。


一方、サユリはとめどなく流入してくる並行世界をたった一人の夢の中で受け止め、孤独に眠り続けます。

「僕だけが、私だけが、世界に独りきり取り残されているような、そんな気がする。」


“約束”を果たさないまま、二人は成長することができません。二人の時間は中学生の時点のままストップしており、精神の奥深く(夢の世界)でお互いを激しく求めあっています。


喪失だけを先行して引き受けたタクヤ
他方、青森に残り、ユニオンの塔の研究をしているタクヤの時間はきちんと流れています。ヒロキとサユリという二人の友人の喪失を抱えながら、かつての“約束”に別の手段で近づこうとします。タクヤは中学時代、後輩からの告白をあっさり断ったりしているあたり、自分の欲求の外部のことを切り離して生きていく術を持っているようです。喪失に蓋をしながら“約束”(の代替)を達成するまで進み続けるタクヤは、ヒロキやサユリとは対称的ですが、ある意味では中学生当時の“約束”をそのまま高校生になっても継続的に胸に抱えていると言えます。


通過儀礼としての“約束”
さて、ここまでヒロキ、タクヤ、サユリが囚われている“約束”とは何なのでしょうか。僕のイメージでは、それは青春時代に訪れる輝かしい高揚感や“憧れ” “夢” “目標” のようなものの象徴だと僕は思います。彼ら三人の“約束”は非常に個人的かつ閉鎖的なものです。それは社会や世間とは関係なく、彼ら自身が価値のあると考えていること。彼らにとってだけ意味のあること。彼らにとってはそれだけが真実であると言っても過言ではない、思春期の彼らの世界そのものです。

「憧れの一つは同級生の沢渡佐由理で、そしてもう一つは津軽海峡を挟んだ国境のむこうにそびえる、あの巨大な塔。いつだって僕はあの塔を見上げていた。僕にとってとても大切なものがあの場所には末弟気がした。とにかく、気持ちが焦がれた。」(ヒロキ)


“約束”とは、簡単に言い換えれば津軽海峡を自力で横断すること。これは子どもである彼らにとってギリギリ手の届くか届かないかくらいの目的です(現実的には国境越えは無茶な気がしますが、そこはアニメ補正があるということで…)。青森という本州北端から、ユニオン領の蝦夷という異世界への訪問。彼らにとって最も身近で手を伸ばせば届きそうな憧れ、冒険。10代の若者が余りあるエネルギーをかけて打ち込む挑戦。これは多くの人間がスケールの差こそあれティーンエイジャーの頃に経験する、精神的な、あるいは肉体的な衝動の発露のようなものではないでしょうか。それはある人にとってはスポーツの大会であり、またある人にとっては吹奏楽の演奏会かもしれません。あるいは難関校の受験であったり、学園祭の成功かもしません。こうした若者ならではの精神の高揚…(と言えばいいのか、うまい言葉が見つからないんですが)のようなものをヒロキ、タクヤ、サユリの三人は“約束”によって高めていました。


もちろんこうした精神的充足をたっぷりとは味わわずに成長していく人もたくさんいるでしょう。しかし、ある種の人々はこうした体験を不可避に、また自ら望むようにして引き寄せ、飲み込まれて行きます。ところがそれはまた多くの人にって一時的なものです。“約束”に向かっているうちは素晴らしい充足感によって満たされていく一方ですが、その“約束”は果たされることによって、残酷にも収束へ向かうのです。


高揚のあとにやってくる“喪失”
三年の月日を経て、三人の人生はもう一度青森で交わり、“約束”を果たすことになります。ヒロキはサユリをベラシーラに乗せてユニオンの塔へとたどり着きます。そこでサユリは覚醒し、現実の世界へ帰ってきます。二人は“約束”を達成すると同時に再会し、そして三年間沈黙していたお互いの人生を再開させるのです。


こうしたストーリーの展開からは、非常に分かりやすいメッセイージを汲み取ることができると思います。上記のような精神的高揚を通過儀礼として味わわないまま、大人になることはできない。そうした経験を避けたまま人は前に進んで行くことはできない。青春時代に残してきた“約束”を凍結したまま、逃避したままで成長していくことはできない。人は成長の過程で、そうした“約束”に何らかの決着をつけなければならない…というある種の強迫的なテーゼを感じますね。


新海誠作品で特徴的なのは、そうしたテーゼにもう一歩、“喪失”体験が加わることです。これは『秒速5センチメートル』で顕著でしたが、青春時代の一時的な精神の高揚の先にはかならず“喪失”があることを、彼はこだわりを持って提示してきます。今作で言えば、ヒロキとサユリは“約束”を果たすことで再会と再開をすることができましたが、その後はお互いを失うことになった…という間接的なプロット(作品冒頭のヒロキのモノローグ)でそれを表現しています。


新海誠作品ではあくまでそうした高揚と“喪失”は通過儀礼としてセットで語られます。今作でもそれは例外ではなく、“約束”の達成と(どうやら)結ばれなかった(らしい)ヒロキとサユリの運命によって表現されているのです。


………



…と、ここまでしつこく“喪失”について書いてきましたが、さらに今作では“夢”という舞台装置を使ってもう少しドラマチックに、象徴的に、“喪失”について語れています。


中途半端ですが、またまた長くなってきたので、この辺で次回へ。


いつになったら終わるのやら…。。


続きはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その4〜


雲のむこう、約束の場所 [DVD]

雲のむこう、約束の場所 [DVD]

雲のむこう、約束の場所(2004)〜その2〜

前回のエントリはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その1〜


前回に引き続き、『雲のむこう、約束の場所』のレビューです。


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とりあえずそろそろ内容忘れそうです(笑)


新海誠らしさ、で語れる作品か
鑑賞後の感覚は「あー、ここで終わりかー。わりとあっさりストレートだよなー。」とか思ったんですが、どうにも心に引っかかるシーンがいくつかあるんですね、この作品。で、よくよく振り返って考えて見ると、「うわ…やっぱりちょっとひねってるじゃーん」というのが分かりました。


個人的には新海誠作品はそういう観賞後の突っかかり…みたいなものが残りやすいと思いますね。後々他の人と語りたくなるというか、ちょっともう一回観直してみよ…という気になるというか。特に「星を追う子ども」の観賞後は「うわ……、がっかり…。。。」だったんですが、後からじっくり検証してみると「そういうことか!よくできてんじゃん!!」とちょっとした感動を覚えたものです。まぁその話は別の回にゆずるとして、「雲のむこう〜」の話に戻ると、やっぱり今作も非常に新海誠らしさ…で語れる作品になっています



さて、前回のエントリで箇条書きにしてみた、新海誠作品の特徴です。

①雄弁に主張する繊細で美しい映画舞台
②デフォルメされた人物描写
③少年少女の残酷な成長物語
④時間・距離の前に非力な我々人間
⑤通過儀礼としての喪失体験
⑥王道アニメジャンルの引用


今作もだいたい上記のような特徴にそって物語が造られていますが、③④のあたりが分かりづらく描かれているので、そこに気づかないとビジュアルが綺麗なだけの薄味な映画になってしまいます。特に④については、他作品ではかなり物理的な時間や距離を直接物語に取り入れているのに対して、今作ではやや影に隠れて物語に作用しています。物理的な距離によって引き裂かれる人間というよりも、“精神的な「想い」の強さ”と“現実における人間同士の結びつきの不確かさ”のギャップ……と言えばいいのでしょうか…。言葉にするのが難しいんですが、そのギャップの中に生まれる哀しみややるせなさ、無力感のようなものが伝わってきます。


セカイ系未遂
⑥の王道アニメジャンルの引用ですが、今作はいわゆる“セカイ系”の文法で舞台設定がされています。

セカイ系って?

セカイ系とは「「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」


「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。

wikipediaセカイ系東浩紀らの定義によるセカイ系 より抜粋


エヴァンゲリオン以降、90年代後半からゼロ年代前半まで流行ったセカイ系。世紀末的な終焉感とオタク・サブカルチャーが組み合わさって生まれたイメージがあります(この辺は管理人は詳しくないのであしからず…)。


雲のむこう、約束の場所」でもこのセカイ系の文法が当てはまります。ヒロキとサユリにとっては“具体的な中間項”=世界情勢や南北統一…といった問題は関係なく、かつて交わした約束や夢の世界で2人が求め合っている=“小さな関係性”のみが真実であり、なおかつ「君を救うか、世界を救うか」というスケールの釣り合わない“抽象的な大問題”に繋がっているのです。


今作ではサユリの覚醒が物語のキーになっています。並行世界の流入をたった一人で受け止め、延々と夢の世界で苦しみ続けるサユリを救いたい…しかしサユリの覚醒とはそのまま並行世界と現実世界の置換が再開されることと同義であり、世界の終わりを意味します。その二択の中で、ヒロキは迷わずサユリを救うことを選びます。今作では葛藤がヒロキとタクヤという二人のキャラクターに分担されているのが面白いですね。ユニオンの塔について考えることを放棄したがサユリのことを忘れられないヒロキ。かたや、サユリのことをなんとか忘れて塔の研究に没頭するタクヤ。ある意味、二人は別の形をした一人の人間ですね。物語終盤で二人が殴り合うシーン。これは一人の人間の中で起きる葛藤の象徴とも言えるでしょう。


結局、二人は「サユリも救って世界も救う」というご都合的作戦を決行し、爽やかな青空の下でサユリはお目覚め。塔も破壊して一件落着…という結末です。


が、、この辺りが王道セカイ系とはズラしてきているところです。基本的に世界の終わり…という終末感に支配されているセカイ系作品は、クライマックスに向かうほど混沌としたカタストロフィに突入していくのが典型です。釣り合うことのない“きみとぼく”の世界と、“世界の終わり”の危ういバランスはどうしようもなく崩壊しながら終焉へと向かって行くのです。


(例えば『エヴァンゲリオン』の旧劇場版では、子ども達の精神はどんどん不安定になっていき、街や施設の破壊は進んで行く一方です。不気味なエネルギーが肥大していき、ついには人類補完計画の達成により人々はL.C.Lという液体に還元され、最後はシンジとアスカの二人だけが地球上に残ります。)

(また、『最終兵器彼女』でも世界戦争はいっこうに終わる気配をみせず、チセの兵器化も止めることはできません。最後にはチセの手によって人類絶滅。シュウジを乗せて宇宙空間へ飛びたちます。)

(また、『なるたる』では……とかやってるとキリがないのでやめましょうかね。。笑)


基本的には、“君とぼく”が救われる代わりに“世界の終わり”がやってくる…あるいは“君とぼく”は救われないものの“世界の終わり”は避けることができた……というどちらかの終結をみることが多いのがセカイ系です。ところが『雲の向こう〜』ではサユリも救って世界も救うという二兎を追って二兎を得るハッピーエンド。僕には何もできない…ってんでうずくまってたシンジくん(エヴァ)と比べりゃあヒロキさまさま!!王子様すぎて濡れちゃう…!!ってなもんで、セカイ系ジャンルとしては至極薄味なご都合展開によるひじょ〜〜にあっさりした終結を迎えてしまうのです…。。



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約束も果たしてサユリも救って塔も壊して一件落着。ほんとヒロキくんすごいです…。



この辺りが従来のSFアニメファンなんかには物足りなく感じてしまう由縁だろうと思います。ずっとひきこもってたヤサ男がカヨワイヒロインと世界の危機をいとも容易く救っちゃう。なんだこりゃと。助けられるだけの弱っちいヒロインにも魅力ないし、男が王子様で女のコがお姫様な時代錯誤のジェンダー意識も甚だしい駄作じゃ!と言いたくなる方もいらっしゃるでしょう(笑)


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か弱くて控えめで清楚で素直な女の子サユリ…。イマドキちょっとファンタジックでフェティッシュすぎますねぇ…。



忘れちゃいけない新海作品のクセ
こんな感じで作品の表面だけ掬ってみると、いくら画が綺麗でも話がと薄っぺらすぎるんじゃないの新海さん…という気もしてきますが、そこはもう少し丁寧に鑑賞したいところです。


実は新海作品で一番重要なのは映画開始5分のモノローグなんですよね(笑)。ヒロキの回想から始まる今作ですが、作品冒頭で新宿駅から電車に乗るヒロキ、彼は中学生でも高校生でもなく、成人して東京でネクタイしめて働いているヒロキです。うっかりしていると映画を観ているあいだにその事実を忘れてしまうんですが(これも狙いか?)、この時彼はどうやらサユリとは一緒におらず、一人寂しげに青森へ向かいます。そして「まだ戦争前、蝦夷と呼ばれた島が他国の領土だったころの話」として回想が始まります。つまり語り手の視点は、ユニオンと米軍の戦争が終わり、蝦夷が日本へと南北統一された後……高校生のヒロキとサユリがユニオンの塔へ行ったよりもさらに未来に置かれているんですね。


時系列としては物語の一番最後に来るはずのポイントが最初に配置されており、なおかつ物語のラストにモノローグが入ることはありません。つまり最初のこのシーンを見逃すと物語の真の結末が分からず終いになってしまうんです。


モノローグは「いつも何かを失う予感があると、彼女はそう言った。」から始まります。つまり、物語のテーマが“喪失”にあることを最初から提示しているんですね。なんということだ…。その後も物語中では「ずっと何かを失う予感がしていた」「いつも何かを失う予感がある」「いつも予感があるの、何かをなくす予感」……などなど、とにかく“失う”ことについて何度も何度もヒロキやサユリの言葉で繰り返されます。目的語のない抽象的で漠然とした動詞の反復……というのがなんとも厨二臭くてアレですが(笑)、



さてさて、この辺まで書いてみて体力がなくなってしまいました…(^_^;)
長くなるので続きは次回。おさらいすると、とりあえず今作で何が語られているのか…という思考の前提としてまず僕は下記のような特徴に気づきました。


・物理的な距離…というより精神と現実のギャップ
セカイ系の引用
セカイ系王道展開からのズレ
・配置転換されている結末
・“喪失”への言及


きちんと観てる人には分かりきったことかと思いますが、次回のエントリで、もうちょっと感想を継ぎ足していきたいと思います(^^)


お疲れ様でした。。ナムナム……。。。


続きはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その3〜

雲のむこう、約束の場所(2004)〜その1〜

雲のむこう、約束の場所(2004)
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監督・原作・脚本:新海誠
キャラクターデザイン:田澤潮
キャスト:吉岡秀隆萩原聖人
     南里侑香石塚運昇井上和彦
【作品紹介】2002年に発表したフルデジタルの個人制作アニメーション「ほしのこえ」で一躍脚光を浴びた新海誠が、初めて挑戦した長編監督作。津軽海峡を挟んで南北に分断された戦後の日本を舞台に、世界の謎を背負った1人の少女を救うため葛藤する少年たちの姿を描いた。米軍統治下の日本。青森に暮らす中学生の藤沢浩紀と白川拓也は、海峡を挟んだ北海道に立つ巨大な塔に憧れ、いつかその塔を目指そうと廃駅跡でひそかに飛行機の組み立てにいそしんでいた。ある夏休み、2人はもうひとつの憧れの存在・同級生の沢渡佐由理に飛行機の秘密を打ち明ける。3人は一緒に塔を目指す夢を共有し、ひと時の幸せな時間を過ごすが、中学3年の夏、佐由理は理由を告げることなく転校してしまう。飛行機で塔を目指す夢もそのまま立ち消えとなり、3年の時が過ぎる。それぞれの道を歩んでいた浩紀と拓也だったが、世界情勢に暗雲が漂い、塔の秘密が次第に明らかになったことをきっかけに、2人は再会する。声の出演に俳優の吉岡秀隆萩原聖人。(映画.comより)


新海誠監督のアニメーションはちょこちょこと観ているんですが、今作でほとんどの作品(処女作の「彼女と彼女の猫」以外)を網羅できました。


いやはや、まず映画としてどうかというのは置いといて、新海誠氏の造り出す世界、これが唯一無二の圧倒的クオリティであることは間違いないでしょう。名前を冠にしたアニメーション作家として、宮崎、庵野、細田……などなどと並んで日本を代表するクリエイターなのではないでしょうか。



新海作品の特徴って…
作品それぞれの細部は結構うろ覚えなんですが、新海誠アニメの特徴としては以下の点が挙げられると思います。

①雄弁に主張する繊細で美しい映画舞台
②デフォルメされた人物描写
③少年少女の残酷な成長物語
④時間・距離の前に非力な我々人間
⑤通過儀礼としての喪失体験
⑥王道アニメジャンルの引用


僕の思いつく限りですが、こんなもんでしょうかね。こうやって羅列してみると、こりゃ面白くないわけない!っていうテーマが盛られている気がしますね。


なんといっても美しすぎる新海ワールド
①、②は画に関する特徴です。新海アニメを観ていると、映画とは、アニメーションとは画面全体で語る芸術なのだ……という意気込みがこれでもかと伝わってきますね。光と影のコントラスト、鮮やかな色彩、ドラマを過剰に演出する背景etc…。シュールリアリスティックな映像表現がストンと自然に観客の胸に入ってくるあたりがさすがです。



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空の美しさは各作品必見。



SFアニメとかスタジオジブリ作品なんかと対比すると、新海作品は比較的現実にある材料で映像が構成されているというのが、誇張された表現を素直に受け入れられる要因かなと思います。メカとか妖怪とかモンスターとか爆発とか…そういった空想的なものではなく、空や雲、光、自然、日常風景といったある意味オーガニックなかつノスタルジックな材料で画面が構成されているのがミソでしょうね。



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電車や踏切もよく出てきます。うっとりですね…。



これに対して②。人物画が非常にデフォルメされたアニメチックな絵柄であること。これがまた面白いんですよね。あそこまで繊細で丁寧な背景の描き込みをしていながら、人の顔はのっぺりとして目が大きく、ほっぺに斜線さえ入ったりしてるわけです(そのせいでなんかちょっとラノベっぽいんですよねぇ雰囲気がw)。「そこがいやだ」という人もいるみたいなんですが、僕はそこでバランスをとっているのが素晴らしいなぁと思うんです。


人物画までリアル路線だと、人物が背景と同化しすぎて埋没してしまうし、雰囲気もシリアスになってしまうんじゃないのかなぁと。何よりそこまでやってしまってはアニメ的な華がないというか(笑)。基本的にはアニメは少年少女のためのフィクション作品だし、自由で創造的な世界であるという出発点を見失わないよう、あえて一見アンバランスにも思える、異なるテイストの絵柄を混在させているのではないでしょうか。新海作品からは「これはあくまでアニメーションなんだ」という潔さを感じます。


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のっぺりですね。



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「雲の向こう〜」はかなりフェティッシュなヒロイン像でした…



ひたすら美しいゆえに儚く崩れさるイノセンス
③〜⑤は物語のオリジナリティです。新海作品の柱の部分と言ってもいいと思うんですが、どの作品も、どうやら人が成長していく上で、とりわけ子どもから大人になる上で、どうしても経験しなければならない心の高揚と喪失のようなものが描かれています。誰もが思春期に感じるとびきり素敵で素晴らしい感情。大事にすべき感情。美しい感情。そういったイノセントな心の輝きを描く一方で、それがいつかは失われてしまうんだ…ということを残酷にも突きつけていくという文法。もはや新海作品が確立しているスタイルと言えますね。


雲のむこう、約束の場所」でもご多分に漏れずその手の物語が語られていきます。そこに固執する理由がどういったものかは僕は知りませんが、ある種の執念というか、「自分がアニメでそれをやらなきゃいけないんだ」という使命感のようなものさえ感じます。新海作品の人気の由縁ではないでしょうか。やっぱりそこんとこに、すごいエネルギーがあるんですよ。



どこかで観た作品と見せかけて
⑥は全ての作品に言えるというわけでもないんですが、アニメや物語のジャンルとして、ある程度フォーマットが確立された文法を引用して、ストーリーや世界観の下敷きにするというやり方が散見されます。決まった様式なら観客が作品世界に入り込みやすいとかっていう理由もあるとは思うんですが、1番にはやはり、紋切り型の物語構造を逆手にとって利用したい、アンチテーゼ又は王道からはずらしたテーマを浮き上がらせたい…という狙いからではないでしょうか。



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ほしのこえ」では近未来SF


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「星を追う子ども」は思いきりジブリ臭がムンムンです(笑)ジブリはもはやジャンルだ!ということなんでしょうね。


また、新海作品で肝要な部分は、SFやファンタジーの世界そのものを左右する大きな物語ではなく、人と人の心の距離や、個人の精神の輝きや喪失といったミクロな物語です。そうしたものを描く時に、あえてシュールリアリスティックな舞台に登場人物を送り込むことで、人間の持つ特性の一部分を浮き彫りにしやすいという効果もあるでしょう。



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ほしのこえ」はSFというかたちをとりながら、物理的にも精神的にも離れていく恋人同士の距離をテーマにしています。




実際に新海誠氏は「子どもたちがジブリやディズニーのようなアニメ作品ばかり観て大人になることを危惧する」みたいなことをどこかで言っていたような…(ソースが出せなくてすいません)。


これには僕も全面的に賛成で、勧善懲悪とかハッピーエンドとか、そういった紋切り型で権威的な、フォーマライズされた作品ばかり観せて子どもを育てるなんて吐き気がします。何よりそういった偏ったものを与え続けることが不健康だし、プロパガンダで情報統制する全体主義国家よろしく、ある意味ではそれは洗脳的でさえあります。様々なテーマを様々な切り口で様々に帰結させる物語がもっと多種多様に存在すべきだし、きちんと老若男女問わずそういったものにアクセスできた方がいいと僕は思います。


新海氏がどの程度何を考えてらっしゃるのかは分かりませんが、作品を観るかぎり、そういったカウンター的な精神が潜在的にあるように感じますね。


……



前置きしてたら長くなってしまいました。「雲のむこう、約束の場所」のレビューは次回に持ち越したいと思います(^_^;)


遅筆遅筆ゥ……


ちなみに夏公開で新海誠監督の新作がやって来ますね。「言の葉の庭」。今までよりも登場人物の年齢設定が上っぽいので、ちょっと違った世界が観れるかもしれません。それともまたジャンルの引用があるだけでテーマは同じかな…。期待です。


続きはこちら↓↓↓
雲のむこう、約束の場所(2004)〜その2〜


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めめめのくらげ(2013)《後編》


めめめのくらげ(2013)《前編》


前回のエントリの続きです。「めめめのくらげ」観賞後に思うこと。子ども向けなのに大人の感想で申し訳ないんすけどね…。個人的な感想として書いていきます。


アイディアはいいのに物語がない
“ふれんど”(=絶対に裏切らない友達)とはなんなのか
今作の目玉である“ふれんど”というキャラクター達。さすが村上隆!といえる素晴らしいオリジナリティの造形の数々です。作中では子ども達が一人一体、ほとんどパートナーとしてこの“ふれんど”を持っています。“ふれんど”で特筆すべき特徴は、彼らの存在は「子どもたちの負のエネルギーが実体化したもの」であること(!)。“ふれんど”は絶対に君を裏切らない友達。もうこの設定だけでご飯3杯いけるくらい個人的にはwktkです…(笑)


マサシが引っ越してきた町には小高い山の上に怪しい研究所があって、“ふれんど”とはどうやらそこでやってる怪しい研究の中で生まれた生き物?らしいです。研究所では“世界中の悪いことをなくすための研究”が行われています。作中では黒いマントの四人衆の学会発表のようなPRビデオのようなものであっさり全部説明してくれます。この説明がどうにも早足でよくわからないうちに終わってしまうんですが、ざっくり言うと

私たちは天災の発生メカニズムを画期的な方法で解明しました。

宇宙を大きな一つの生命とみなすと、宇宙で起こるさまざまな活動はそもそも生命エネルギーが引き起こしています。

ということはその生命エネルギーを支配してコントロールできれば天災はなくなるのです!

そして最も純粋で大きなエネルギーを持っているのは子どもです。

子どもの心から発生する怒りや哀しみといった負のエネルギーこそが最強です。

我々(研究所)は八卦陣を使ってそのエネルギーを抽出することに成功しました。

その過程でエネルギーは“ふれんど”として実体化しました。“ふれんど”は子どもの心と共鳴します。


結局“ふれんど”と子どもをどのように利用するのかは具体的に語られないんですが(説明不足では?)、とりあえず“ふれんど”と子ども達は泳がせといて、なんとなく“ふれんど”を仲介して子どもの負のエネルギーを集めよう…という雰囲気は感じられます(“デバイス”で集めるんだったかな?)。基本、黒づくめの四人衆が実験的にあれこれ試しているようです。


で、この“ふれんど”と子ども達の関係が今ひとつはっきりしないんですよねぇ。まず“ふれんど”一体一体の出自が謎。子ども達みんなが一人一体持ってるんだけど、例えばジョジョのスタンドみたいに、子ども一人ひとりの個性(負のエネルギー)が反映されて生まれたものなのか、あるいはあくまで“ふれんど”は負のエネルギーの総体から生まれてきたのが、後から子どもとマッチングして、そのあと双方向に影響しあうのか…(なんとなく後者っぽい)。主人公マサシとくらげ坊がなぜ出会い、共鳴できたのかもよく分かりません(もしかして偶然出会った子どもとすぐリンクできるんでしょうか)。


くらげ坊がやたら強いのも、マサシが震災で父親をなくした深い哀しみを背負っているからということなのでしょうけども、その割には他の子どもがどんなストレスを抱えていて、それがどのように“ふれんど”たちに反映されているのか…そういう部分が描かれません(悪さして親に怒られたりしてますけどね)。物語中盤で唐突に登場してその後無双してしまう引きこもりくんの“ふれんど”であるKO2ちゃんは確かに強いし、なんとなく負のエネルギーが大きいほど強い…みたいな匂わせ方はあるんですけどね。子どもの怒りや哀しみが強まるほど“ふれんど”が共鳴して強くなる…という直接的な描写はなかったように思います。ヒロインのサキは母親がカルト宗教にハマってるとかの理由はあるんですが、それが原因であんなでっかいもじゃもじゃな“ふれんど”になっちゃうの…?とか。今ひとつその辺の設定は浅めな気がします。


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サキの“ふれんど” るくそー
どんだけ負のエネルギーがあればこの大きさになるのでしょうか…w



結局、“ふれんど”=負のエネルギー=絶対に裏切らない友達……というすごくいいアイディアを用いてるのに関わらず、それが物語づくりにはうまく活かされていません。今作のモチーフとして“震災後”というテーマが大きくあるはずなんですが、心の傷とかマイナスの感情といったものをどうしていけばいいのか、子どものそういうエネルギーはどこへ向かって行くのか、そういう気持ちを“敵”として捉えずに“ふれんど=友達”になろう、そういうエネルギーは利用して、みんなでより大きなもの(=ラスボス)に立ち向かおう!…ということなのか……うーーん。。。画面に映し出されているものからはもうひとつ汲み取ることができませんでした。


素晴らしい映像美。なんだけど…
今作最大の目玉はVFXを駆使しして実写映像に溶け込む“ふれんど”のアクションでしょう。これはもうほんと、必見です。こんなにも自然に珍獣達が人間と一緒に画面に定着するとは…。特に序盤と中盤の“ふれんど”同士のバトルシーンは圧巻!!戦闘方法も物理的な打撃が多いのがいいですね。迫力があります。


さて、これに対して最も残念なのが実写パートのチープさです。。実写パートというか、全編通して物語があるようでない。設定のみがあるだけでストーリーが語れない…そんな印象です。フィクションを通じて何を物語りたいのか…という構想自体がそもそも存在しないような気さえしました。クオリティの高いCG映像を受け止めるだけの強度が実写映像(&ドラマ)にありません。


染谷将太窪田正孝などなど、せっかく実力のある若手俳優を起用しているのに、まったく活かしきれてないのも残念です。。)


羅列するとキリがないんですが、人物達の行動がいつも唐突で説得力や必然性が感じられないし、どの人物にどんな役割が与えられているのかもはっきりしません。引きこもりくんは物語中盤で急に現れて、そもそもなんで学校に行かないのかよく分からないし、直人おじさんは研究所で働いて何がしたいのか、マサシを救いたいのか守りたいのか……。マサシが父親をなくしたことについてどのくらい心を痛めているのかも画面からはもう一つ哀しみとかやるせなさが伝わって来ない。そういう実写ドラマの撮り方?が単純にヘタクソだなぁと。。(すいません)


そして何より子ども達と“ふれんど”がどのように心を通わせているのかが全然描かれていないんです。マサシとサキ以外の子どもは“デバイス”で“ふれんど”を操るのみで、“ふれんど”を友達というよりはむしろ道具として使っているようにさえ見えます。闘わせるだけで意思疎通している様子がないんです。「心を通わす…」というのは本作で結構大事なテーマではないんでしょうか……。。


基本的にどんどん説明不足のまま話が進んでいくので、全編を通じて「何が」「どういう理由で」起こっているのかが分からないまま。これでは映像がめまぐるしいだけのC級パニック映画を観ているようなものです。ちょっと辟易としてしまいました。(それとも、子どもを飽きさせないためにはそれでいいってこと?)


・一番意味が分からなかったのは、研究所で開催されているなぞのお祭り…。若年の人達が自堕落に遊んでいるように見えましたが……、何かの象徴でしょうか。それとも村上隆氏の思い入れがある何かの引用?(勉強不足ですいません)あれはすごい気持ち悪かったです。。
・それから学校のプールでマサシとサキがイチャつくシーンも…あれはいくらなんでも、“ない”んじゃないでしょうか…w
・突然出てきたニセ直人おじさんはなんだったんですかね。人造人間?マサシにおじさんが死んだとか、死んだはずのおじさんが攻撃してくるとか、そういうことで精神的なダメージを与えたかったんでしょうか。。
・サルに良く似た“ふれんど”を持っているマナトくん。クライマックスで急にクラスのイニシアチブをとってリーダシップを発揮するんですが…この子のキャラってそういう役割なの…?現実にはそういうこともあり得るとは思うけど…。うーん。。


爆発する子どもの感情
「めめめのくらげ」で唯一映画としてオリジナリティがあると思ったのは、子どもの表情のクロースアップを多様していることです。バストショットもありますが、とにかく顔のドアップがよかった。しかもその表情の数々が感情剥き出しでとっても豊か。このくらいの年齢層の子達がこういう撮り方をされた作品ってあんまり見たことないなぁ。


フランソワ・トリュフォーは「大人は判ってくれない」で特にプロットに関係がないにもかかわらず、観劇中の子ども達の生き生きとした表情の映像を挿入したりしていましたが…。彼の言葉をかりれば、やっぱり子どもというのはアプリオリにドラマチックな素材ということなんでしょうねぇ。


特に子ども達の「怒り」の表情。感情剥き出しで相手に喰ってかかる顔、顔、顔…。これが本当によかった。もっと見せてほしかったくらいですね。マサシがサキに向かって怒鳴るシーンなんかもう怒りというか、ほとんど「癇癪」を起こしているといってもいいくらいだと思います。こういう爆発する子どもの感情が唯一CG映像に勝る強度を持っていました。振り返ってみると子ども達はみんないい表情していましたね。名前忘れたけど、マサシを睨みつけるクラスメートとか、引きこもりくんの人を喰ったような顔とか、草むらから盗み聴きをしていたマナトの「きーきーまーしーたー!」の顔はなんだか狂気さえ感じたましたよ僕は…w


やっぱり特撮の文法だったのかな
思うままに書いてきたらだらだらになってしまいましたが、ここまで書いてきて思うのは、あ、たぶん俺最初から観方間違ったかな?ってことですね。「めめめのくらげ」は基本的に“特撮もの”の文法でつくられている気がします。仮面ライダー、ウルトラマン、戦隊ヒーローみたいなね。そういう作品ってまぁ、小難しいことは抜き。ドラマはチープ。チート使い放題…みたいなところがあり、場面場面の繋がりとかよりも定型的な物語展開が優先されますもんね。(巨大ロボ・怪獣の登場、変身、爆発…etc)今回は心のどこかでアニメ作品を観るという先入観があって、これちょっと違うな…と感じてしまったのかもしれません。


ただ、今作にはヒーローはいないわけで、メインのアイコンは前回のエントリにも書いた「ボーイ・ミーツ・エイリアン」な構造なんですね。そうやって考えると、「めめめのくらげ」は特撮もの×モンスターもの?の融合的な試みなのかなぁと思います。実写だしね。それって結構新しくて、オリジナリティのあるアプローチじゃないでしょうか。ストーリーもいまや感動作金字塔であるポケモン映画みたいなものというより、ウルトラマンくらいの簡単さってことなのかな。


で、も、、「めめめのくらげ」やっぱりそういう2つのジャンル感のあるものを融合して新しい地点に昇華・着地する……という感じにうまくはいっていないと思います。


なんというか、結局表面的な引用をたくさんしているけど、それを支える物語が弱すぎて、映画として耐久度のあるものになっていない…というのが僕の感想ですね。


そういうわけで、楽しみに観に行ったけど、なんだか残念だったなーという印象でした。でもまぁ、面白いかどうかは子ども達が判断すればいいよね。結構子どもは一生懸命になって観ているっていう評価もよく目にしました。


次回作もある
個人的には村上隆氏はアイディアとデザインに徹して、CGやアニメーション制作はカイカイキキが担い、あとは話作りがきちんと出来る人を連れてきて、映画は最低限映画の文法で撮る…という風にしたら結構面白いものが出来上がるんじゃないかと思います。まぁアートとして先端的なものが出来上がるかは別だし、保守的なことばっかりしててもいいものが生まれるわけでもないけど、今回みたいな感じだと正直別に映画という媒体じゃなくてもいいんじゃないかなと思ってしまう。映画として造るならもっと人間を描いて欲しいなぁと…。フィクションで何を語るのか、固めて欲しいなと…。


どうやら連作のようなので「めめめのくらげ2」がどうなるのか、期待です。なんか予告観るかぎり、2の方が面白そうでしたw


ちゃんちゃん。


蛇足あれこれ

〜その1〜

本人もこんなつぶやきをしてるくらいなので、もしかするとストーリーそのものについては優先度が低いのかもしれません。


〜その2〜


めめめ音頭 - YouTube


めめめ音頭。素晴らしいアニメーションです。こういうの見ちゃうと、やっぱアニメで良かったんじゃないの…とか思ってしまいますね…。


〜その3〜

実は「めめめのくらげ」は今から12、3年前に当初企画したときは、群馬県の奥地にブラジル人が出稼ぎでいっぱい働いている集落があるという話を聞いて、思いついたストーリーなんです。日本社会内の隠された移民という異文化の衝突と融和を描こうと思ったんです。そこには日本 生まれのブラジル人少女がいて、都会で事業に失敗した親子が田舎に来て、その子、男の子が少女と出会い、そこに妖怪が登場し、文化の衝突 に手を差し伸べる、という話でした。日本社会内に衝突が見えなかったんで、そういう部分に裂け目を探しだして、お話のリアリティを造ろうとしたんです。
公式サイトロングインタビューより)


群馬県太田市のことでしょうね。個人的にはこっちのが面白そうww


〜その4〜

今の日本、本当にどん底だし、政治も何もかも、大人、全くダメじゃないですか。このストーリーに出てくる大人、全員何もできない人々なんです。だから子供が自分で考え、動くしか無いんです。

それが日本の今のリアルって思ってます。そういう部分も寓話にもりこみ、「君たちが頑張らんと問題解決しないだよ!」という。もう、闇雲な元気というか。「暗闇の世界に闇雲に生きろ!」って、テーマはそういうことでしょうか。
公式サイトロングインタビューより)


うーん、確かに震災後にいろんな基準のようなものが危うくなり、大人も混乱している。そういうカオスな感じが「めめめのくらげ」にもありましたが…(研究所は明らかに原発のメタファーだし、対立するカルト宗教はラウドな反原発集団そのものでした)。なんかただ気持ち悪いだけっていうか、そういう描き方でいいの?と思っちゃいますね。。この違和感はうまく言葉にできないんですが。。


クライマックスで子どもたちが立ち上がったシーンは、どうにもカオスの中でますますカオスが増幅しているように見えました。パニックに次ぐパニック。ぐちゃぐちゃの中でもっとぐちゃぐちゃに頑張る……あ、そしたらそれでなんとかなった……みたいなね。それでいいのかなぁ……。

めめめのくらげ(2013)《前編》

めめめのくらげ(2013)
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監督・原案・エグゼクティブプロデューサー:村上隆
監督補:西村喜廣
キャスト:末岡拓人、浅見姫香
     窪田正孝染谷将太
     天宮静子
【作品紹介】世界的に活躍する現代アーティストの村上隆が映画初監督を務めたファンタジードラマ。村上自身の原案で、少年と“ふれんど”という不思議な生き物たちとの交流を描く。小学生の少年・正志は、引越し先の新しい家で見慣れない段ボール箱を見つけ、その中からクラゲのような不思議な生き物が現れる。その生き物を「くらげ坊」と名づけて仲良くなった正志は、くらげ坊を連れて転校先の学校に行く。すると、他の生徒たちも正志と同じように、大人には見えない「ふれんど」と呼ばれる不思議な生物を連れていた。(映画.comより)


村上隆が映画を造る!しかもCGアニメと実写のMIX作品らしい。そして子ども向けらしい……。そんな映画が公開とあってはとにかく興味だけはムクムクとそそられる。結構期待して観に行ったんですが、なかなか微妙な代物となっておりました。


(以下作品内容に触れます)


詰め込まれまくる日本的/子ども映画のエッセンス
どんなものにも王道・正攻法・メインストリーム…というものがあると思うんですけど、「めめめのくらげ」には誰が観てもわかりやすい様々な日本映画、アニメ映画の仕組みが多数採用されておりました。ある意味ハイコンテクストと言えなくもない。


☆ボーイ・ミーツ・エイリアン
子どもや若者を主人公としたSFやファンタジーに典型的な、ちょっと心に傷のある子どもと人間意外の何か(モンスター、妖怪、ロボット、未来人、宇宙人etc…)が出会い、子どもならではの対未確認生物コミュ力を駆使して心を通わせていく…。基本的にはこれだけで一本映画を造れる典型的なフォーマットが「めめめのくらげ」でも採用されています。本作では“ふれんど”と呼ばれる珍妙な生き物が“エイリアン”ですね。

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主人公マサシとくらげ坊


☆ジャパニーズ・田舎の夏( & 異端者たる主人公)
夏休みに公開されることの多い子ども映画。必然的に夏休みに行った知らない土地で冒険が待っている…というスタイルが増えます。美しい田舎で未知の生物と駆けまわる子ども達。何度観てもいいんですよコレがね。今作の舞台設定は田舎の夏休み……というわけではないのですが、わけあって母親と郊外に引っ越してきた主人公が田んぼや神社、山の中で暴れます(笑)季節設定も初夏〜夏。なんとなくぼんやりと、既存の子ども映画フォーマットが根底に採用されている気がします。


ポケモン的珍獣パートナー
ポケモン以降、非常に定型的になった子ども×パートナー珍獣の組み合わせ。自分の身体や精神とリンクしたモンスターを闘わせる…その中で成長物語や友情を語る…というやり方ですね。「めめめのくらげ」では“ふれんど”という珍獣たちが子ども一人に対して一体存在しており、“デバイス”(スマホっぽい)で操ります。この構造だけ見るとまんまデジモンの構図と同じです。コロシアムでのバトルシーンがあったり、あくまで肉弾的な戦闘法で闘う……という要素は格ゲースタイルっぽくもあります。目新しいわけではないですが、もはや説明不要で受け入れられるほど現代の日本人や子ども達にはDNAに擦り込まれたアイコンです。VFXを駆使したこの“ふれんど”のアクションが今作一番の見どころです!

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みんな持ってます。すごい。そしてこわい。


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バトルシーンは大興奮です。


☆特撮、SF、オカルト…&カルト
ラストは巨大怪獣が出現!みんなで力を合わせて撃退して大団円!…とこれまた戦隊ヒーローやウルトラマン、ドラゴンボールなんかを思わせるジャンル感。研究所で“ふれんど”の研究をする謎の組織?も仮面ライダーが敵役としていたショッカー等のカルトな秘密結社臭がプンプン(笑)しかもそこで主人公のおじさんが研究者として働いてる。さらに、街にはオウム的新興宗教のような団体があり、一定数の大人が入信して研究所と対立しています。



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最後は巨大怪獣のご登場。



そんでもって研究所の研究内容がこれまたうさんくさく、「天災のメカニズムを画期的な方法で解明した」「宇宙全体を生命と捉えると、天災を生み出しているエネルギーそれすなわち生命エネルギーだ!それをコントロールするのだ!」「その生命エネルギーは子どもが一番強いのだ!」とか言ってます。和風な八卦陣のようなものと機械を繋げて未知のエネルギーを制御しようとするあたり、オカルトSFな各種ジャパニメーションを連想させますな。


いやほんと、ジャパンな雰囲気だけはムンムンと立ちこめている映画です…。


☆父を失った主人公/3.11後の子ども達
今作で一番大きなテーマとなっているのがここんところでしょうかね。主人公のマサシは東日本大震災で父親をなくし、郊外の団地で母親と二人暮らしをするために引っ越してくる。傷を負ったマサシに浴びせられる差別語は「放射能」「お前の親戚研究所で働いてる」。何やら規律ばかり厳しそうな小綺麗な学校。カルト宗教にのめり込むヒロインの母親。問題発覚で親からぶたれるクラスメート。偉そうにするばかりで、内実は混乱している無力な大人…。そんな歪みの中で子ども達の負の感情が膨れ上がり、エネルギーとして溜まっていってるんだぞ……!という設定が(一応)されてます。


ささーっと思いつくものを挙げただけでも結構ありますね…。これだけツボを抑えてれば面白くないわけがない…というくらい盛りだくさんのエッセンスが引用されています。こうやって書き出して見ると、「おいおいこんなに詰め込んだらさぞ重厚でお腹いっぱいな映画なんだろうなー。」って感じしますが、どっこい、なんか薄味なんです。今作。。という僕の印象。。


村上隆氏が映画を造ること自体はすごく楽しい試みだと思うし、彼の造形センス・映像センスやカイカイキキの制作力が映画界に入り込むのも面白い。実際その点に関しては成功していると思う。が、一本の映画として観たときに、やっぱり残念な作品になってしまっていると僕は感じました。


長くなりそうなので一回切って、次のエントリに繋げたいと思います。


めめめのくらげ(2013)《後編》



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KO2ちゃんが超キュートでした。